懺悔がまるで神に対する弁解のような、それどころか、神を懐柔しようとする試みのようなイメージを与えることがあります。・・・感情を持続させるには、人為的な努力が必要です。・・・下水溜を一心にのぞきこむうちに、独特の頑迷な高ぶりの思いが生まれないとも限りません。
『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、40f頁
2019年1月24日(木)
神さまに向かっての懺悔や悔い改めが、神さまに対する弁解、あるいは神さまを懐柔する、神さまを巧みにてなずけ従わせる、抱き込もうとすることのように見える、とルイスはいいます。懺悔や悔い改めをするために、下水溜のような自分の罪深さ、醜さを一心にのぞきこみ続けなければならない、という人たちに対して、そんなことをしているならば、結局のところ、独特の頑迷な高ぶりの思いが、そこに生まれるのではないか、といいます。
もちろん自分の中の醜さを神さまの前に告白する必要はありますが、それ以上に神さまへの賛美、感謝、そして神さまがともにいてくださることの喜び、救いの喜びを喜ぶことが、信仰生活なのではないか、というのでしょう。
「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」(ローマ2・4)
今日のルイスの文書の中には、聖フランソワ・ド・サルのことばが引用されています。今日1月24日は、聖フランソワ・ド・サル(フランシスコ・サレジオ)の記念日だからでしょう。