すなわち、使徒たちによって宣べつたえられ、殉教者たちによって証され、信条のうちに具体化し、教父たちによって説き勧められてきた信仰をこそ、養護しなければならないのです。それは、神と人間とに関する個人の思索の全体と、はっきり区別されなければなりません。
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キリスト教を信ずる者は、そもそもはじめから超自然を素直に肯定しなければならないのです。『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、37f頁
2019年1月21日(月)
聖書に書かれている内容が、現代の科学にあうかあわないかは、ある人にとって大切なことのようです。例えば、創造論、例えば、処女降誕、数々の奇跡、キリストの復活を科学的に証明できないならば、それらを信じることが難しいと考えるのです。それで信じやすくするために、それらを証明しようと努力します。科学的に証明しよとします。しかしそこにキリスト教信仰が生まれるのかというと、ちょっと違うのではないかという気がします。科学的に証明することは、結局のところ、キリスト教信仰を科学にあらわされている人間の知恵や知識のもとにひざまづかせようとしているだけではないかという気がします。
キリスト教は、証明することではなく、信じることによってはじめて、捕えることのできる信仰です。ですからキリスト教信仰に生きるためには最初から超自然を素直に肯定することからはじめなければなりません。
「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11・26)