われらは自分ののぞみをあなたに置き、何ごとにも気落ちすることなく、何ごとにも弱ることなく、罪と死もわれらを不安にすることはありません。いかなることにおいても、あなたがわれらのそばにいてくださり、われらの不完全さにも妨げられることなく、ますます善きものをあたえてくださるのです。
C.ブルームハルト、『夕べの祈り』、加藤常昭 訳、154f頁
〔約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。〕(ヘブライ10・23)
2018年7月7日(土)
私たちが「公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保つ」ことができるのは、「約束してくださった」方、すなわちイエスさまが「真実な方」だからです。私が「しっかりと保つ」のですが、それができるのは、私の力によるのではない、と聖書は語ります。知性を越えた信仰の神秘がここにあるように思います。
ですから私たちがいかに不完全であっても、神さまは善きものを与えてくださいます。
確かに信仰を持つ時に教えられることとして、私たちと神さまとの間には「罪」という深い断絶がありました。その断絶を、私たち罪びとは埋めることができません。神の子イエスさまが、その断絶を十字架と復活をもって完全に埋めてくださいました。人はそのイエスさまを信じることによって、救いにあずかる者となりました。
その信じるということにおいては「悔い改める」ということが大切なことです。ですからこの悔い改めが「条件」となって救いの道が開かれる、とも理解できます。そうすると、悔い改めという人間の行いによって、救いの道が開かれるという考え方も出てきます。ここに至って、信仰のみによって救われるという聖書の根本的な真理が歪みかけていることに気づきます。
これは悔い改めの理解がちょっとずれていることから起こることではないかと思います。悔い改めとは、自分の力によって反省するということではありません。神さまの一方的な恵みによって方向変換をするということです。方向変換をするということは、立っているところはその時点では同じところですから、自分の人生に変化が見られないかもしれません。しかし方向が変わりました。神さまの方向に向かいましたから、どんなにスピードは遅くとも神さまの方向に向かっていく人生となりました。
神さまの方向を向くまでは、人間はみな自分に向かっていました。この自分に向かっているということが、偶像礼拝の根本的な問題です。どのような生きかたであっても、自分に向かっているだけの人生は、苦しい人生であり、そこから善いものが生まれることはありません。そのような偶像礼拝の罪の中にあった人生が方向変換され、神さまの方向を向く者となりました。それが救われるということです。
救われるということは、この地上にありながらも、かつて人間が生きた「エデンの園」に生きる者となることです。それは神さまの国、天のみ国に生きる者となるということです。滅びに向かう人生から、永遠のいのちに結びつけられた人生に生きるということです。
救われた人生に生きつつも、地上にある限り人間は罪を犯します。また不完全さの中にあります。しかしそのような私たちの弱さ、足りなさにもかかわることなく、神さまは善きものを私たちに与え続けてくださいます。このように神さまを目あてとして生きる人生に変えられたので、つねに神さまが与えてくださる善きものに生かされる人生となりました。