あなたはわれらに和解を与えてくださいました。その和解によって、われらはいっさいの禍い、いっさいの過ぎゆくものから解放され、すでにこの世にあって永遠の中に生きることがゆるされているのです。
C.ブルームハルト、『夕べの祈り』、加藤常昭 訳、74頁
〔わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。〕(1ヨハネ2・1,2)
2018年3月28日(水)
キリスト教信仰には「罪を犯さないようになる」ということと「たとえ罪を犯しても」という二つの信仰的状況が共存します。人間の理性にはこの二つのことが共存する余地はありません。しかし信仰的現実においては、この二つのことが共存します。あるいは共存しなければならないのです。
人間の理性に固執するならば、信仰は成り立たないのですが、それは人間であるということも成り立たなくなってしまうことでもあります。私たちは人間の理性に固執するのではなく、神さまの愛と義にとどまります。それは「私は不完全で限界のある人間である」ということに平安をもってとどまるということでもあります。そこに健やかな人間の生があります。