キリストはすべての艱難を聖化し

多くの危険、さまざまの艱難のもとにあっても、あなたがわれらにしてくださるすべてのことによって、み名はほむべきです!

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キリストはすべての艱難を聖化し、われらの艱難もまた時と永遠とにわたってあなたのために実を結ぶことができるようにしてくださったのです。

C.ブルームハルト、『夕べの祈り』、加藤常昭 訳、42f頁

〔身にふりかかる艱難は、すべて甘受せよ。たとえ屈辱を受けても、我慢せよ。金は火で精錬され、人は屈辱のかまどで陶冶され、神に受け入れられる。〕(シラ書〔集会の書〕2・4,5)

2018年2月13日(火)

「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」(ペトロの手紙1 1・7)

金は火で精錬されます。人生における艱難は、私たちが聖化されるための火のようなものであると語られています。

私たちがその艱難において聖化されるためには、まず艱難自身が聖化されなければなりません。神さまによって艱難を聖化していただくのです。神さまは艱難を聖化することのできるお方です。

聖化とは、この場合神さまのものにされるということでしょうか。

艱難がどこかわからないところからやってきている、あるいは、無意味に襲ってきているというのではなく、神さまからやってきている、と信仰を持つところに、その艱難が火としての役割を果たす可能性を生むのです。

神さまは決して悪いものを私たちに与えるお方ではありません。私たちにとって都合の悪いことであっても、神さまは深いご愛のお心をもって私たちに艱難を送っておられるのです。その時、その深い意味が見出せないかもしれません。しかしキリストの十字架を仰ぎ見、復活の主のお力を信じ、ご聖霊さまのご臨在の中に、艱難を聖霊の火のように受け止めたいと思います。

今日の個所は、旧約聖書続編(外典、第2聖典)である「シラ書〔集会の書〕」からの引用がされていました。新興プロテスタント諸派では、この部分をまるで異端の書のように毛嫌いするきらいがあるようですが、キリスト教会は伝統的にこの部分を大切に扱ってきました。もちろん、礼拝の説教個所として読むことはありませんが、様々な証しの本などにくらべるならば、もっと読まれてよいところでしょう。