オルガンティーノは先に立って仮礼拝堂に案内した。狭いがきらびやかに装飾された祭壇の真ん中に小さなキリスト磔刑像がかかげてある。
「あれが耶蘇様です」
キリスト像は、腰に一枚の布をまとっただけの姿だ。手と足が釘で磔台に打ちつけられている。青年は息をのんで見つめている。
「神様がどうして磔になったのでしょうか」
「耶蘇様は、神ではありません。なきところより、天地をおつくりになった御作者神(デウス)様は、ただ御一体だけ。耶蘇様は神の子。実(まこと)の人にてまします。十字架(クルス)の上より、われらを導きたまうのです」山本兼一、『火天の城』、文藝春秋、2004年6月15日発行、80ページ
イエスさまが神さまではないとカトリック教徒に語らせていますが、これは驚くべきことだと思いました。聖書の真理は、神さまが十字架に架かり死んだというところにあります。十字架でささげられた命が神さまの命であるということです。
神さまならばどうして磔になったのかという疑問こそ、信仰のポイントをつくことだと思います。神さまなのに磔になってくださったのです。ここが大切です。
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