主イエスさまは、宣教を開始され弟子たちを召された後会堂でみ言葉を教えられました。その教え方は律法学者たちの用にではなく権威あるものとして教えられました。律法学者たちもある種の権威を持って語っていたと思いますが、そのような権威とはまったく異質なイエス様の権威とはいったいなんだったのでしょうか。
広辞苑に権威とは「他人を強制し服従させる威力。人に承認と服従の義務を要求する精神的・道徳的・社会的または法的威力」とありました。他人を強制し服従させる威力としてよく似た言葉に「権力」があります。権力は同じく広辞苑によると「他人をおさえつけ支配する力。支配者が被支配者に加える強制力」とありました。違いを考えてみると、権力は無理やりに従わせる力という感じですが、権威のほうはそれを感じるものの中に少なからず「自発性」のようなものを持たせるということではないかと思います。
このあとのところに悪霊につかれた人がイエスさまの言葉で癒されているとことが出てきます。民衆は悪霊さえ言うことを聞く権威ある教えだと驚いています。
民衆たちにとって律法学者たちの語る聖書の教えは、決して実現できない道徳基準、いわゆるお題目、として受け取っていたのでしょう。それに対してイエスさまの語られる聖書の教えは、自らの中に「自発性」を生み出したということではないでしょうか。つまりイエスさまの語られる言葉に、もしかしたらこのお方ならば決して変わることがないとあきらめていた自らの人生を変えることがおできなるのではないか、と直感的に感じたということではないでしょうか。
それはさておき、この権威と権力をごっちゃにしてしまっていることでいろいろなところでこんがらがっているのではないかと思うことがあります。周りの人に自発性を伴う変化の心を持たせるべきところでは権威を発揮しなければなりません。しかしそこで権力を行使してしまってはいないかと反省しています。夫として、父として、牧師として・・・。
まことの権威をお持ちのイエスさまを見上げて歩みたいとお思います。
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