教派の存在

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私は、教会が教派を持つことは、間違っていないと思っています。自分の信仰の理解はこうである。あなたがたの信仰の理解は違う。そう言わなければならないことが、いくらでもあると思います。しかし、そこで大事なことは、私どもが、自分を、神に並ぶ絶対者に仕立ててはならないということです。どんなに、あの人の考えは間違っている、と思っても、あの人は毒麦なのだから引き抜こう、と私どもが言ってはなりません。そういう意味では、私どもの主義・主張は、あくまでも、はっきりした一つの限界の中に置かれているのです。限界の中に置かれるということは、別の言葉で言えば、キリストの恵みが、どんなに大きな力か、ということをよく知っているということです。敵をも生かす恵みです。私どもがどんなに敵を作っても、敵が滅びることを自らの手でしてはならないし、そのことを、いま神に願うことも許されていないのです。許されることは、主イエスが言われたように、敵をも愛し、敵のためにも、神の恵みを祈ることであります。

加藤常昭、『加藤常昭説教全集8 マタイの福音書 3』、ヨルダン社、1991年2月15日、238頁

 聖書は本当に豊かな書物です。その豊かさの中で教理的なバラエティが生まれるような気がします。人間が神にならないために神さまはこのようなバラエティを存在させておられるのではないでしょうか。みずからの信仰の主張を大切にしつつその限界をわきまえ知り、違った教理理解の兄弟姉妹たちを受け止める自由をいただきたいと思います。

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