「人の未だ無我に向って其我を制せざる限り、其人は人として此より進む能はず。未だ百順を以て多年の奉事を尽くさざる間、其人は人として此より昇る能はず。人は如何なる我勢を張って、如何に長年月に達すると雖も、其未だ有神なる無我を学ばざるや、只徒(いたず)らに成敗利鈍の間に其身を投するのみ。必ず善化して善に至る能はざるなり。」

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「人の未だ無我に向って其我を制せざる限り、其人は人として此より進む能はず。未だ百順を以て多年の奉事を尽くさざる間、其人は人として此より昇る能はず。人は如何なる我勢を張って、如何に長年月に達すると雖も、其未だ有神なる無我を学ばざるや、只徒(いたず)らに成敗利鈍の間に其身を投するのみ。必ず善化して善に至る能はざるなり。」

新井奥邃、『聖言』、185

「人は、我欲をなくすことを目標に、自分の我を自制しないかぎり、その人は人として前進することができない。いくら長期にわたって奉仕生活をしてきたとしても、仕える心がないならば、その人は人として向上することができない。人はいかに骨身を惜しまず働いても、いかに長い年月にわたって奉仕して来ても、神さまを中心として自己中心をなくすことを学ばないならば、ただいたずらに成功か失敗か、運が良かった悪かったということに、人生を投ずるだけになってしまう。それでは善に造り替えられ善に至ることはできない。」

 聖書が語る「罪」とは、自己中心のことです。神さま抜きで自分が中心となって人生を生きようとすることが罪なのです。ですから信仰、信仰と言いつつも、そこに結局のところ自己中心があるならば、真実の信仰の歩んでいるとは言えません。自己中心は、人からどのように評価されているかということに終始しますので、上がったり下がったりの人生となります。
 聖書が語る「偶像礼拝」とは、この自己中心に表れとして、神さま以外のものを拝むことです。偶像を拝むということは、結局のところ自分自身、あるいは自分の欲望を拝んでいるということです。ですから異教の神々や異教の習慣を拝むことが聖書の語る偶像礼拝であるとは単純には考えることができません。毎週教会に通い、聖書を読み、キリスト教的な信仰生活を送っていたとしても、自己中心であるならば偶像礼拝者です。逆にさまざまな事情の中で異教の習慣の中にあり、他宗教の行事を行っていたとしても、自己中心と闘い、神さまを中心として謙遜に生きようとしているならば、福音に近く歩んでいると言えるでしょう。
 近しい人が亡くなり、その葬儀が仏教式だというので出席しないというキリスト者がいます。驚くべきことです。また仏教式の葬儀に出席して、焼香(焼香をすることは偶像礼拝である、と多くの福音派のキリスト教会では考えられています)をしなかったと、さも自慢たらしく語るキリスト者がいます。異教の葬儀の場が、自分の宗教の宣伝や自己主張の場だと思っているようです。嘆かわしいことです。イエスさまがどんなに心を痛めておられることかと思います。
 いずれにせよ、我欲や自分自身に固執する事から解放されること。それが聖書信仰の目ざすところです。

〔聖書の個所〕

ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。このようなことのために、神の怒りが下るのです。
(コロサイ3章5,6節)

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