「真正なる大人は此の世に容れられず。真正なる尊者は此の世に知られず。是れ我が主に於て証明せらる。其名称の如きは世之を聞かざるなからんも、其真実に至りては世人之と知らず。蓋し其血異りて、生命未だ相関せざればなり。」
新井奥邃、『聖言』、164
「偽りのない本物の大人はこの世に受け入れられない。偽りのない本物の尊者はこの世に知られない。これはわが主であるイエス・キリストにおいて証明されている。この名称などは、世はこれを聞かないことはないが、その真実に至っては世の人は、このようなお方であるとは知らない。まさしくその血が異なっていて、生命はいまだお互いに関係していないのである。」
大人とは分別を持った十分に成長した人物ということであり、尊者とは知徳の備わった人物ということでしょう。真実にそのような人は、この世に受け入れられず知られないものです。逆にこの世によく知られているということは、俗物ということになり、大人でも尊者でもないということを証明しています。
この世に知られているか、この世に受け入れられているかどうかを第一番に考えて生きようとするならば俗物となるということでしょう。イエスさまはこの世に受け入れらないばかりか、この世に殺されました。
この世は真に大人である人、真に尊者である人を受け入れることができません。それはこの世とそういった存在とのいのちの交流がないからです。
キリストは乙女マリヤからお生まれになりました。それは人間の知識や経験の外側からやって来てくださったということです。マタイの福音書の1章にある系図を見ると一見血筋においてしっかりとしたルーツをもっておられるかのようですが、この系図はヨセフにつながってはいますがマリヤにはつながっていませんので、そこにも私たちの外側からやって来てくださったということが明らかにされています。
交わる所のなかった神と人間。その断絶された交流を回復するべく神さまのほうから手を差し伸べてくださいました。それがキリストです。この神さまは世の終わりまで私たちと共にいると約束をしてくださいました。
〔聖書の個所〕
すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
(ヨハネ1章9~14節)
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