「吾人先づ宜しく信界に游ぶべし。其気を息して其心を洗ふべし。宜しく淡乎として其欲する所を一にすべし。淡々として欲する所能く一なれば、其動くや道に中りて、無我の門乃ち開く。人能く其門に入り、夫れ然る後、清風の快、天民の安、得て感ずるべきなり。」
新井奥邃、『聖言』、150
「わたしたちはまず信仰の世界にゆったりと生きよう。その気持ちに生きることによって、その心から不純なものをとりのぞこう。名利などに執着する心から解放され、その願うところを一つにするべきである。水がいっぱいに満ちて安らかに流れるようにして一つの願いに生きるならば、その先には必ず道の完成があり、無我の門が開くであろう。人は十分にその門に入り、そののち、清らかな風のような心地よさ、天国の民のような平安を、得て感じるべきである。」
信仰に生きるということは、すべてをゆだねてゆったりと生きることです。この世の宗教活動や啓発活動はややもするとその行動自体が尊ばれ、結果この世のさまざまな活動のように名声を求めたり成果主義に陥ってしまいます。それでは真の平安は得られず、また無我に生きているとは言えないでしょう。
我力によるのではなく、神さまのお力を信じ、神さまにゆだねながら、与えられたところで、与えられた分を尽していきましょう。
〔聖書の個所〕
主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
(ルカ10章41~42節)
真理と愛のうちに、御父と御父の御子イエス・キリストから来る恵みとあわれみと平安は、私たちとともにあります。
(第2ヨハネ3節)
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