「人は我慢なければ謙に近し。虚栄なければ和に近し。謙和は卑近に在り。則ち卑近に在りと雖も、其気高し。故に人善く己を虚うし、其気をして来りて我れに通ぜしめずんば、或は門牆に到ると雖も入るを得べからず。人は我慢なく虚栄なく、又進んで己を捧ぐれば、基督の心を得て茲に謙に至らん。」
新井奥邃、『聖言』、147
「人は我慢がなくなれば謙遜に近づいている。虚栄がなくなれば和睦に近づいている。謙遜と和睦は身近なところにある。身近なところにあるといっても、それは気高いものである。人は自分自身を虚しくし、その心をもって、自分自身に精通しようとしないならば、たとえ門や垣根にやってくることができてもその中に入ることはできない。人は我慢ではなくまた虚栄でもなく、また進んで自分自身をささげて生きるならば、キリストの心を得て謙遜に至る。」
「我慢」とは自分を偉く思い、他を軽んずる事、あるいは我意を張り他に従わないこと、です。「我慢」というと「忍耐」という意味で使う場合が多いのですが、ここではまったく違う意味ですね。しかし忍耐という意味で我慢という言葉を使っていても、「自分はこれだけ頑張って我慢している。なのにあの人は全然我慢していない。けしからん」という心が潜んでいるならば、案外同じような意味なのかもしれません。
いずれにせよ謙遜で心を穏やかにして、自分自身に目を向け自分自身を理解しようとすることが大切です。高慢になったり、見栄を張ったりすることから自由になって、自分自身を神さまの御手の中にゆだねて生きること。そうすれば、おのずとキリストの心に生きることができるでしょう。
〔聖書の個所〕
もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。
(ガラテヤ5章25~26節)
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
(ピリピ2章3節)
同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。
(第1ペテロ5章5節)
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