「深淵は黙然なり。浅流は噪然。噪然なる者は声聞多し。天言はざる乎、言はざるに非ず。但高うして下人に聞えず、然るに天や高しと雖も豈斯の人に遠からんや。人にして耳なくんば聞くべからざるも、之を聞く者は之を心に聞くなり。明天の法は人を心に判す。」

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「深淵は黙然なり。浅流は噪然。噪然なる者は声聞多し。天言はざる乎、言はざるに非ず。但高うして下人に聞えず、然るに天や高しと雖も豈斯の人に遠からんや。人にして耳なくんば聞くべからざるも、之を聞く者は之を心に聞くなり。明天の法は人を心に判す。」

新井奥邃、『聖言』、142

「深い淵は沈黙である。浅い流れは騒がしさ。騒がしい者はその声の聞こえることが多い。天からの声とはいかなるものなのだろうか。言葉はそういうものではない。もっぱら高いところにあって下々の者にはきこえない、よって天は高いので、あいにくその人には遠くにあるのだ、と。人において耳がなければ聞くことができないが、これを聞こうとする者は、これを心に聞くのである。明らかに天の法則は、人をしてその心によって判断される。」

 深い淵のように、人生の深さ広さは、多くの言葉によって語られるものではありません。騒がしく多くの言葉が飛び交っているところは、浅瀬の流れのように深さも広さもありません。分かりやすいのかもしれませんが、表面的な対処療法が語られているだけで、真実に人生を生かす思想ではないのです。
 では真実に人生を生かす言葉は、どこに聞えてくるのでしょうか。それはあまりにも高尚で、俗人には聞くことはできないのでしょうか。
 確かに真実に人生を生かす言葉は、それを聞くための耳が必要なのかもしれません。しかしその耳とは、「心で聞く」ということではないでしょうか。心で聞くということをするならば、だれでも天からの声を聞くことができるのです。神さまの言葉は、心で判断するものです。どんなに知識を積み上げても心で聞かないならば、その声は響いてきません。逆になにはなくとも、神さまの前にひざまずき、へりくだって、心を静かにするとき、神さまの言葉が響いてきて、聖書の深さ広さを知ることができるのです。

〔聖書の個所〕

たとい君主たちが座して、私に敵対して語り合ってもあなたのしもべはあなたのおきてに思いを潜めます。まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。
(詩篇119編23~24節)

コメント

“「深淵は黙然なり。浅流は噪然。噪然なる者は声聞多し。天言はざる乎、言はざるに非ず。但高うして下人に聞えず、然るに天や高しと雖も豈斯の人に遠からんや。人にして耳なくんば聞くべからざるも、之を聞く者は之を心に聞くなり。明天の法は人を心に判す。」” への2件のフィードバック

  1. コールのアバター
    コール

    先生、 私のこの語録の読みはちょっと異なります。

    深淵は黙然たり。浅流は噪然。其噪なる者は声聞(しょうもん)多し。天言はざる乎、言はざるに非ず。但高うして下人に聞こえず。然るに天や、高しと雖豈斯の人に遠からんや。人にして耳なくんば耳(みみに)すべからざるも、之を聞く者は之を心に聞くなり。明天の法は人を心に判す。
    (『奥邃語録』1910・2 『著作集』④50ページ)

    深い淵はものを言わずに黙っている。浅い流れはがやがやと騒がしい。騒がしい者には利己的な人が多い。天は言葉を発することがないのだろうか。いや、発しないことはない。ただし、もっぱら高きにあるので下々の者には聞こえないのだ。ところで、天は高いとはいうものの、どうして人から遠いことがあろうか。人において聞く耳がなければ耳にすることもできないが、天言を聞こうとする者は、これを心に聞くのである。天の理法は、人をその心によって判別される。

    「声聞」についてですが、ここでは利己主義者、自利のみを望む者という意味で使っていると思われます。「声聞」とは元来は釈尊の直弟子のことで、釈迦の入滅後は、四諦の教えに従って阿羅漢となることを理想とした修行者を指していました。これが大乗仏教からは自己の悟りのみを追求する者として批判され、近世の日本語では、転じてエゴイストを意味する隠語でもありました。

    1. job1925のアバター
      job1925

      コール先生、コメント ありがとうございます。
      なるほど「声聞」「しょうもん」と読むのですね。
      それにしてもコール先生の翻訳は、曇り空が一気に晴れるように私の心にすっと入ってきました。感動しました。重ねてありがとうございます。

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