「今人多くは天命を畏れず。聖言を信ぜずして之を侮る。神に奉事する者を迷信となす。而して知らざる者は彼等を以て壮となし又快となさんも、然れども其反證斯くべからざる者は其傲慢の間に存す。彼等は其外面強剛なる如きに拘はらず、其内心に於て安んずる能わず。是れ何ぞや。彼等仮令其力を用いて自ら安んぜんと欲するも到底得べからず。其不安の実或いは之を外部に蔽ふと雖も其心に於て欺くべからず。是れ何ぞや。正に其據る所なきの証なり。」
新井奥邃、『聖言』、141
「現代において多くの人は天命を畏れない。聖書を信じることをしないで、これをあなどる。神に奉仕する者を迷信とする。そうして知らない者は彼らが盛んで快活となっているけれども、その反証を欺くことができない者は、その傲慢の中にいる。彼らはその外面が強硬に見えるが、その内心におては平安にいることができない。これはどういうことであろう。彼らはたとえその力を用いて自分自身に平安であろうと願っても到底手にすることができない。その不安の実のある人は、これを外部から見えないように包み隠したとしても、その心に於いては欺くことができない。これはどういうことであろう。まさにその隠すことのできない証しである。」
「天命」とは寿命としてもいいのかもしれませんが、文脈からすると「召命」「使命」といったことでしょうか。畏れるとは大切に考えることということでしょう。
人にはみな神さまから与えられた使命があるのです。その使命を大切に考え、好き嫌い、適不適に関わらず、その使命に生きるならば、生き生きと生きることが出来、深い満足感を味わい、まことの平安を心に中に持つことができるということです。
外面的に平安を装うことができたとしても、神さまからの使命を軽んじるならば、心のなかには平安はありません。神さまの使命を軽んじるのは、傲慢な生き方です。
今与えらえていること、取り組まなければならないことを神さまからの使命としてあたらめて受け取り直し、それを大切に生きるならば、充実した人生、まことの平安に満ちた人生が始まります。
〔聖書の個所〕
イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
(ヨハネ21章17~22節)
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