「信者は誠に其信より主を呼びて、火性基督と謂ふ。是れ想像に非ず。誠に霊握する所ありて謂ふなり。是れ畏々敬々の誠其中心より発する者に非ずんば知るべからざるなり。其誠此の段に発揮すれば則ち能く之を知らん。能く之を知るに及べば其相親近なる事世に其言あらざるなり。」
新井奥邃、『聖言』、136
「信仰者は誠心誠意、その信仰より主イエス・キリストを呼び求めて、燃えるようなキリストという。これは単に想像によることではない。まことに霊によって把握することがあっていうのである。これは深い畏敬の念の真実の中心から発する者でなければ知ることはできない。その誠意はこの段階において発揮するならば、そこでこそ深くこれを知ることができる。深くこれを知ることに到達するならば、そのような見方に親しむようなこと、そのような言葉は存在しないであろう。」
神と一口にいっても、単に人間の想像によるものであるとすれば、虚しいものです。しかしキリストはたしかにこの地上に来られ、この地を歩まれました。人間の想像によるものではなく、確かな歴史的存在です。そのキリストに確かなリアリティをもって呼びかけることは、深い畏敬の念によってしかできないことです。この深い畏敬の念を持つということこそ、信仰の心でしょう。信仰とは自分を越えた多いなるものに対して確かなリアリティをともなう畏れをもつということです。
科学万能の現代に生きる者としては、はなはだ非科学的なことのようですが、人間は科学によって生きているのではありません。いのちによって生きています。いのちは目に見えないものであり、また普遍的客観的に理解できるものでもありません。
いのちを豊かに生きるためには、畏敬の念は大切なポイントです。
〔聖書の個所〕
あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。悪すぎてもいけない。愚かすぎてもいけない。自分の時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。神を恐れる者は、この両方を会得している。
(伝道者7章16~18節)
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