「夫れ主の降れるや、自然界に自然にして生まれたるに非ず。目的の目的あり。即ち唯一標準の目的を以て降り生れたるなり。誠に救世の為なり。而して其救世は即ち正に救宇宙の大事業に当る。」
新井奥邃、『聖言』、133
「主イエス・キリストが、この地に降誕されたのは、この自然界においてただひとりでに、あるいは無目的に生まれたということではない。そこには大切な目的があった。すなわちただ一つ大切な目的をもって降誕されたのである。それはまさに救世のためである。そしてその救世はまさに宇宙の救いという大事業を完成するためである。」
「自然」(じねん)とは、目的なしにひとりでに起こった、あるいは成り行きで起こったということでしょう。それにたいして、キリストの降誕は、大きな目的をもって起こったことであり、その大きな目的を完成するためになされたことであるといいます。
聖書を読んで、そこにいろいろの奇跡が書かれていますが、最大の奇跡は二つです。一つはキリストの降誕、もう一つはキリストの復活。この二つの奇跡をどう心に収めるかが信仰に生きるか否かの分かれ道となります。
その一つ、キリストの降誕。聖書は乙女(処女)マリヤからキリストは生まれたと書きます。つまり処女降誕です。これは人間の常識、人間の知恵からは到底理解することのできないことです。それは人間の常識、人間の知恵の守備範囲外から、神は来られたということを語っています。ですからこれは理解するか否かではなく、信じるかどうかの問題です。
これを信じるということは、私たちの人生を180度変えます。日々経験する問題や壁を前にして、人間の常識や知恵では、絶望しかないところでも、この処女降誕を信じるという生き方は、人間の常識や知恵の守備範囲の外から神さまの救いはやって来るということを信じる生き方ですから、常に絶望から自由にされているのです。
キリストは、私たち人間の救い、この被造物すべての救い、全宇宙の救いのためにこの地に降誕されました。
〔聖書の個所〕
イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
(マタイ1章18節)
すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
(ルカ1章30~33節)
しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
(へブル9章26節)
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