「凡そ生命に入る者は必ず私名無きなり。人其の私名存する無きに及んで、斯に始めて永遠完全の「人」中に入るを得べし。」

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「凡そ生命に入る者は必ず私名無きなり。人其の私名存する無きに及んで、斯に始めて永遠完全の「人」中に入るを得べし。」

新井奥邃、『聖言』、114

「大体においていのちに入る者は必ず個人名がないものである。人はその個人名が存在することがないところに至って、ここにはじめて永遠完全の「人」の中に入ることができるであろう。」

 生命とは、永遠のいのち、まことのいのちのことでしょう。人間は肉体のいのちを持っていますが、それは精神のいのちでもあります。そのいのちのある身体とは切ろうとしても切り離すことができません。一体です。
 そのいのちはやがて尽きるものですが、永遠の存在である神さまと共に生きるならば、その限りある私たちのいのちも、神さまの永遠に結び付けられるのです。すなわち永遠のいのちに生きることができるのです。
 それは死なないということを意味していません。この肉体のいのちは相変わらず限界があります。しかし精神のいのちは永遠と結びつけられて永遠となります。
 この永遠には二つの意味があります。一つは死が終わりではなくなったということ。つまり死後の永遠のいのちです。そしてもう一つは尽きることのないいのち。汲めども汲めども尽きることのない泉のように、尽きることのないいのちをいただいたということです。
 使命という言葉があります。いのちを使うと書きます。人間は誰かのために愛を傾けたり、ビジョンに向かって情熱を傾けたりすると、いのちを使いますので当然疲れます。時に燃え尽きます。しかしこの汲めども尽きることのない永遠のいのちに生かされると、燃え尽きるどころか、ますます生き生きと生きることができるのです。それは目に見えないものに焦点を当てて生きる生き方ともいえるでしょう。
 このような命に生きる者は、大体において自分の個人名を高らかに表明したり、名を挙げることを考えたりはしないものです。もし名を挙げることを考えているようでは、いまだ永遠のいのちを手にしているとは言えないでしょう。素晴らしい永遠のいのちに生かされているということは、その素晴らしさのゆえに、この世での名声などということはどうでもよいこととなるのです。
 それは自分自身をよい意味で「忘れる」といことではないかと思っています。人間はいつも自分が中心で、人からどう思われているかということに左右されています。それは永遠のいのちに生かされているのではなく、この世の評判を力にしようとしている生き方であり、浮き沈みの生き方です。それに対して永遠のいのちに生かされているということは、決して変わることのない大いなる愛に生かさているということですから、ゆるぎない生き方を私たちにもたらします。

〔聖書の個所〕

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
(ヨハネ3章16~17節)

まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです。
(ヨハネ6章47~48節)

わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
(ヨハネ10章28節)

誇る者は、主にあって誇りなさい。自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です。
(第2コリント10章17~18節)

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