「百を捧げて一をも乞はざるは学なり。無我の門なり。百を学んで一をも有せざるは聖なり。無我の家なり。」
新井奥邃、『聖言』、47
「すべてをささげて何一つ求めないことこそ学ばなければならないことである。我を忘れて無心になろうとする者が必ず通るところである。すべてを学んでいてもそれを自慢げに所持しない者こそ、聖人である。我を忘れて無心になるものの住まう所である。」
「門」とか「家」は文字通りかもしれませんが、教えの一派、門下生、学派、流派をも想像させますので、キリスト教信仰、あるいはキリスト教会と理解してもよいかもしれません。物質的にも、また学識や経験でも、何一つ自分の手の中に納めない。置かない。そのような「無我」に生きる者の道にある幸いを思います。
〔聖書の個所〕
一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。
(箴言17章1節)
イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。
(マタイ19章21~22節)
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