「厳師なきの学は学に非ず。己を治めんと欲する者は、必ず厳師の下に学ばざるべからす。」
新井奥邃、『聖言』、48
「厳しい先生の存在しない学問は真の学問ではない。自分自身を支配し変革しようと願う者は、必ず厳しい先生のもとに学ばなければならない。」
人間は弱い者です。水が低いところに流れるように、人間も簡単な方向、気持ちの良い方向、楽な方向に流れていってしまいます。それでは、自分自身が変えられること、向上することはありえません。自分の感情に反しても、厳しく指導してくださる存在によって、あるべき方向、向上、成長に進むことができます。厳しい言葉をかけてくれる存在は貴重です。
教会が、罪人である者を救う所であるならば、それはどこか罪人を矯正する所であるはずです。そうすると厳しい師がいて、厳しい言葉が語られるところであるはずです。しかし耳触りの良い言葉、自分の都合の良い言葉のみを求める人間の罪に翻弄されるところになり下がっているとすれば残念です。聖書の言葉がまっすぐに語られ、まっすぐに聞かれるところとして成長していきたいと思います。
〔聖書の個所〕
主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。
(箴言1章7節)
アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。・・・死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、「このことについては、またいつか聞くことにしよう。」と言った。
(使徒17章21~32節)
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
(へブル12章7節)
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