〔自由な恵みの福音〕
2015年6月1日(月)
「神の自由な恩寵(恵み)」。神の恵みは「自由な」恵みですから、教会の告知は、人間の側で示されうるいかなる資格も、力量、接触点といったもの、さらには重きをなす人間的な信頼も功績も頼りにはできません。恵みは、神には全くその義務もない、被造物のための恵みです。神の怒りの他に何も値しない罪人(つみびと)のための恵みです。
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恵みは懇願され祈り求められ、しかも感謝されることでのみ確実になります。すなわち、恵みは私たちにいつも再び全く新たに、全くなじみがないかのように、懇願され、祈り求められ、感謝されるものです。
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恵みがこの自由の中でこそ「恵み」であることを、私たちは一瞬も忘れないようにしましょう。すなわち、あるがままの私たちに、私たちそのものに、私たち無力な被造物に、本性的に堕落した罪人である私たちに、死の陰を歩む者である私たちに向けられた恵みであると。
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神の恵みは私たち人間に関わります。そして人間であることとは、神の恵みに関わりをいただいた者のことであります。もし私たちの決定すべてがまず関連しうるこの客観的な、この存在的な実態から私たちが逃れたりするならば、イエス・キリストは、万物がそれにより創造された言ではないでしょう。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、323f。
人間であるということは、神さまのこの自由な恵みに関わりをいただいた、ということです。
この世界に生まれてきたという事実は、その背後に神さまの一方的な恵みがあったからです。こうして日々生かされているということも、神さまの自由な恵みがあるからです。
神さまは、私たちの良い行いに答えなければならない、つまり私たちの良い行いに縛られる方ではありません。また私たちの悪い行いに罰を与えなければならない、つまり私たちの悪い行いに縛られる方ではありません。
神さまは常に自由なお方です。その自由において私たちに恵みを与えてくださったのです。また与え続けていてくださるのです。
この恵みは、全くなじみがないかのように、懇願され、祈り求められ、感謝されるものです。またそうして恵みは確かなものとなります。恵みを味わい知ることができます。
(祈り)
神さま、あなたの自由の中で罪人でしかない私を恵んでくださったことを感謝します。どうかこの罪人でしかない私を恵んでください。
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