〔フィリピの信徒への手紙のキリスト賛歌〕
2015年4月26日(日)この「このため」というのは、この低くされてへりくだった方が後に高くされ、その自己犠牲と従順さのために報いを受けられたことを言うのではなく、そうではなくてまさに低くされ屈辱を受けた方は高くされた方でもある、と言っているのです。
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「あらゆる名にまさる名」は同11節によれば主(キュリオス)の名前です。これは同6節の「神の身分」とは別なもので、その代わりに登場します。それは啓示する者の、仲裁者の新しい神の身分である、と安んじて言えるでしょう。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、239ff。
キリストが高くされたこと、あらゆる名にまさる名を与えられたことは、キリストの自己犠牲と従順さの報いではないのです。
低くされ屈辱を受けられた方は、同時に高くされた方でもある、ということです。キリストの高さ、崇高さは、十字架において明らかにされたということでしょう。私たちは、キリストの十字架に神さまの崇高さを発見するのです。十字架におかかりになった方、そして復活された方が、私とともにいてくださいます。十字架にかかり復活された方だからこそ、私とともにいてくださいます。
(祈り)
神さま、御名を賛美します。
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