〔フィリピの信徒への手紙のキリスト賛歌〕
2015年4月25日(土)彼は自らへりくだっておられました。
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神に等しいことの放棄に相応しく、今や人間と等しくなった者のこの屈辱は、死にまで至っていたということ、これは屈辱の最期から二番目のもので―「十字架の死に至るまで」、「犯罪者の死」に至るまで、これが屈辱の最期の最も深い時であります。
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ゴルゴタの丘で現れるのは、肉になること、ベツレヘムを意味することであります。そして十字架の死に至るまで自らへりくだるこの方、その人間性においても身を隠すこの方、この方がキリストの教会の天の頭(かしら)です! そこでは、この共同体の中で自分のものを捜し、他者を自分自身より高い地位に据えずにいて、そのままで一人のお方を求めるなどということが可能でありましょうか。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、237ff。
他者を自分よりも優れた者と思うことと、イエスさまを信じることは一つの事です。どちらか一方だけをしているときは、どちらもしていないのです。
(祈り)
神さま、屈辱的な死を受け入れるほどにへりくだられたイエスさまを見上げて、互いに相手を自分よりも優れた者と思うことができるように助けてください。また互いに相手を自分よりも優れた者と思うことによって、イエスさまを真実に主と仰ぎ見させてください。
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