〔イエスのご受難の前にある人間〕
2015年4月2日(木)異邦人に、イエスはイスラエル自身により死刑にするよう引き渡され、彼らの間違った判決に従い、彼らの手によりイエスは事実殺されます。従って彼らは、イスラエルの悪い意志の執行権と、同時に神の恵み深い御意の執行権をイスラエルと共に行使したのです。だからこそ、彼らは最後の時にイスラエルの希望の実現に具体的に加えられました。とにもかくにもギリギリ間に合うほどに早く、彼らの一人がイエスの死の直後、あの最初の明白な信仰告白と罪の告白を口にできるのです、「本当に、この人は神の子だった!」(マルコ15章39節)
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こうしてイエスの死は、引き離されたもとを、選ばれた人びとと選ばれなかった人びととを一つにまとめる。
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教会の誕生はイスラエルの救い主の血において、その血において異邦人たちは―かつて「キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていた」(エフェソ2章12節)のが、約束を「一緒に受け継ぐ者」と「同じ体に属する者」そして「同じ約束にあずかる者」(同3章6節)なのであります。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、186f。
ユダヤ人は神さまの約束の民です。それに対して異邦人は神さまの約束の民ではありませんでした。しかしイエスさまの十字架において異邦人が重要な役割をしたことにより、異邦人も神さまの約束の民であることが明らかになりました。キリストの教会は、ユダヤ人も異邦人もなく、みな神さまの前に罪人であり、みな十字架と復活のあがないによって救われなければならない者である、と告白します。
私もユダヤ人ではありませんので、異邦人です。異邦人ですが、キリストの救いの環の中に入れていただきました。十字架と復活への信仰によって。
自己中心の罪の中にある人間は、周りの人の存在がすべて「私」のためにあると勘違いしています。「私」以外の人は、それぞれの自分自身のために存在していますから、私のためにあるなどと勘違いしていると、つねに行き詰ってしまいます。共に生きる、ということは、この違いを知り受け入れるということをしなければなりません。一つになるというのは、お互いの垣根がなくなり同化することでは、まったくありません。一つになるということは、お互いに違いをしっかりと知ること、その垣根、境界線をしっかりと見出すことにおいてのみ可能です。
境界線をしっかりと見出すためには、まず自分自身をしっかりと持たなければなりません。それは神さまを信じることにおいてのみ可能です。神さまの愛のまえに立つことにおいてのみ可能です。
神さまの愛の前に自らをしっかりと愛し、そうして隣人との境界線を発見し保ちましょう。そうして私たちは一つとなって共に生きることができるのです。ユダヤ人も異邦人も、もはやありません。
(祈り)
神さま、あなたの愛の中におらせてください。そうして人と自分との境界線を大切にさせてください。共に生きるために。
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