〔ゲツセマネの園にて〕
2015年3月20日(金)イエスが固持した恭順と贖罪の実は―偶然にではなく神ご自身の計画に従って、表面上だけではなく極めて真剣に―イエス自身の拒否と永劫の罰となるべきだということが問題でした。神の怒りの杯を飲むことが問題でした。これこそがイエスの苦悩と死において襲いかかってきたものでした。
カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、162ff。
神さまの御心こそ、私たちにとって最善のことです。ローマ人への手紙8章28節においても、すべてのことを益としてくださる神さまですから、私たちはただ、神さまの御心のままに行ってください、と祈り、委ねていればいいのです。
しかしこのゲツセマネの園でイエスさまが祈り委ねられた神さまの御心は、神さまの怒りの杯を飲むこと、でした。
死ぬことが分かっていて敵に向かって進みゆくという苦しみもあったのかもしれませんが、それよりも、愛し愛される豊かなかかわりの中にあった父なる神さまの怒りに身をさらすということだったのです。どんなに苦しい苦しみも、誰か一人でも味方がいて支え続けていてくれるならば、何とか乗り越えていく道も見出すことができるでしょう。その味方が神さまであるならば、誰が敵対することができるでしょう。
しかしイエスさまは、味方がだれ一人いないところ、父なる神さまさえ見放してしまわれるところに、そしてそれが父なる神さまの御心であるとの確信の中に進んで行かれたのです。
このイエスさまだからこそ、私たちを救うことができるのです。
(祈り)
神さま、すべての苦しみをお受けくださったあなたがともにいてくださることを感謝します。
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