〔ゲツセマネの園にて〕
2015年3月19日(木)イエスは願います、この時間を、怒りのこの杯を自分から過ぎ去らせ、免れさせて頂きたいと。
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この奇怪なことの回避を全く一人で、イエスは祈りました。ところが一方弟子たちですらそれを願って祈りませんでした。この出来事を妨げてくださいとイエスは、孤独に神に叫びました―これとは違う別の可能性の実現を祈り、上記の将来が現実にならないよう祈りました。しかしまさに、イエスは願いますが、要求はしません。何ら「要求」を主張することはなく、神にいかなる条件もつけない。今後の恭順を留保せず、従って贖罪の立場を今も止めず、神に前もって権利を、自分自身に対する権利をも委ねることをやめません。
自らの釈明を自ら何らかの形式で先取りすることを、自ら決定しようとすることを、イエスは考えてもいません。自分と神の事柄を裁く者であろうと考えもしません。イエスはひたすら子として父に願っています。子は、父に自分の窮状を知らせ、御心に迫ることは許されるし、すべきだと知っています。だがまた、可能であり、それゆえに実現すべきものについて、神は御意のままになさること、すなわち神が実現させることは、ただひとつの可能で、正しいものであるだろうことを知っています。
カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、161f。
祈りは要求ではない、願いは要求ではない、ということでしょう。要求は同じ立場、あるいはどちらかといえば立場の上の者が、つきつけるものです。時に怒りをもって、不満をもって。
しかし祈りには、信頼があります。また、裁くお方はあくまで神さまであることを知っています。決定権は神さまにあることをしっています。そして、神さまの決定なさることに絶大な信頼をもっています。委ねています。
祈りに生きているだろうか、要求に生きてしまってはいないだろうか、と自らを省みます。
(祈り)
神さま、父なる神さま、あなたに信頼します。御心をなさってください。
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