聖餐においては神ご自身が執り行われる(働かれる)

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〔聖餐〕
2015年3月13日(金)

聖餐において人びとは並び合ったり離れあったりするのではなく、その代わりに一緒に共にあるために、互いに向かいあって近づいていくのであり、その限りではまさに、共同体を構築する行いです。

この礼典の中に、神の目に見えない働きがあります―想起されるのは、精霊における父と子の交わり、イエス・キリストにおける神と人との交わり、頭(かしら)としてのイエス・キリストの御体と御肢体との共同体、最後に神によって作られて神と和解した世界と神との共同体です―それは「原形」、教会の目に見える、比喩的な働きの、従って人と人との神において証しせられた一致の意味と力であります。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、151f。

共に食事をする。共に食卓を囲む。聖餐式の大切な意味の一つにこのことがあります。さまざまな立場、さまざまな意見の違いがあるがままに、共に食卓を囲むのです。最初の聖餐式がまさにそうでした。誰が偉いかと議論している者もいれば、いつイエスさまを裏切ろうかと考えている者も共に囲む食卓だったのです。主イエスさまは、その食卓において、ご自身の体をパンとぶどう汁として、差し出されました。それを食した弟子たちは、さまざまな違いのままに共同体とさせられたのです。こんにちの教会もこの通りです。

聖餐式を行われるのは、イエスさまご自身です。それをあらわすために、牧師が前に立ってパンとぶどう汁を分餐します。小さな教会では、牧師自らが一人ひとりに分餐します。「取って食べなさい。これはわたしのからだです」(取りてくらえ、わが体なり)と語りつつ、一人一人に配ります。大きな教会では、まず牧師が皿を取り、それを分餐者に渡します。それを分餐者は、人々に分餐します。分餐者は役員、または役員経験者がします。それは役員(執事)という言葉が、給仕係を意味するからです。そうして一つの食卓を囲み、一つのパンにあずかる群れであることが明らかにされます。

 

(祈り)

神さま、きょうもあなたに生かされていることをありがとうございます。

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