〔聖餐〕
2015年3月11日(水)バッハの「マタイ受難曲」の歌詞にはルターのまだ改訂以前の翻訳による次の詞があります。「このくだらぬことは何の役に立つのか? 何のために、何のために? ・・・」。
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ニコライ、あるいはツィンツェンドルフあるいはノヴァーリスを引いて少し言い過ぎたりして、時折は脱線するほうが、彼らに対してカントとリッチュルと、1921年の私のローマ書簡と、今日ではブルトマンを持ち出して、木で鼻をくくったように生真面目に正論をぶつよりはずっと良いことではないでしょうか。だがそのためには、前者の人たちが率直正直に語ろうと試みた中心に沈黙の領域を作り、それと共に会計係ユダの仲間でないにしても、あの異議申し立てをする弟子たちの仲間に陥ることよりは、ともかくいいのではありますまいか。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、148f。
いわゆる正しい人は、いわゆる正論を語ります。それによって隣人がどんなに傷つき悲しい思いをするか、などということはお構いなしです。それでいて自分のことはというと、ずいぶんゆるゆるで、やりたい放題という人がいます。人間は弱い者ですから、できるだけそういう人とは距離を持たなければなりません。そうでなければ、自分も加害者になってしまいます。
人間は、正論を語る人からすれば「無駄」と思えるようなことを、その人生に抱えている人のほうが優しい。そういう人とお友だちになりたいと思います。本当に私は弱い人間ですから。そしてイエスさまもそこにいてくださいますから。
(祈り)
神さま、香油を注いだ女性の側に立ち続けてくださったあなたのご愛に胸打たれています。
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