〔弟子の召命〕
2015年1月24日(土)
「弟子の召命」は、イエスについて語られなければならない最初のものです。イエスの働きと共に、使徒職の存在も始まります。
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イエスが彼らに、彼らから確かなものを作ろうとなさって、自分のところへ来て、従うよう命じられる。彼らが生まれつきすでにあるものは、何の役割も果たしません、漁師だったこととその網を投げたことは、彼らについて語られる唯一のことです。選び以外には彼らの側での召命の根拠や前提たるものは、決してありません。
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この新しい本来の天職を学ぶために、彼らは網と船を去って、イエスに従います。このためにイエスは彼らをご自分への信従に召すのです。ほかならぬ彼らを召すために、イエスは彼らを選ばれたのです。
イエスは「彼らをご覧になった」(同16節)―、この見分けつつ選びつつ見ることでもって、すでに彼らの上に賽は投げられました。それに直接続くのがイエスの)その劇的な緊張のゆえにほとんど訳せませんが)呼びかけ「わたしについて来なさい!」です。―その力によって彼らは、それ以前にあった者であることを止め、そして以前なかった者になるのです。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、63f。
キリスト教信仰を宣べ伝えるための一つの方法として、初代のキリスト者たちが教会を造ったのではありません。イエスさまご自身が最初から使徒職を置かれ、教会を造られました。
キリスト教信仰から、教会をなくしてしまったらそれはもうキリスト教信仰でなくなってしまいます。
では使徒職、教会とはいったい何でしょうか。
それはイエスさまの一方的な恵みによって「召された」者、イエスさまの一方的な恵みによって、イエスさまに従う者となった者、の群れのことです。
そのイエスさまの召しによって、以前のものを捨てて、イエスさまについていった者のことです。そこに福音を語る者としての確かな資質があります。
何かの賜物に優れているとか、信仰が深いとかといったことではなく、ただイエスさまのお言葉にそれまでのことを一切捨てて、これからはイエスさまに従う者になること。そこに慰めと愛の宣教が始まります。
牧師や伝道者になるという直接的な献身に限らず、キリスト者はみなこのイエスさまへの「信従」に召された者です。そこにこそ「天職」への道がはじまります。
(祈り)
神さま、あなたの召しを心から感謝します。
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