〔イエスの洗礼と私たちの洗礼〕
2015年1月10日(土)
この神はむしろ―人が神を造ったのではなく、神が人を造ったのです!―まさに人の神、人の主であります、だから人には神に対して中立的に、あるいは頑固に神に対抗する実存解釈を行って自らの主人として振る舞えるようなそんな場所は、ありえません。
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イエスは、人が逃れることのできない、距離を取ることもできない「その」一番近い方であります。イエスを相対化できないし、イエスと議論することはできません。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、39ff。
デパートの商品売り場で品定めをするように神さまを選ぶ人がいます。
この神さまは自分にあうだろうか、この神さまは自分の要求にこたえてくれるだろうか。自分にあう神、自分の要求にこたえてくれるならば、信じよう、そうでなければいらない、と。
これこそ聖書の語る偶像です。
もし聖書の神さまをもこのように扱っているならば、それはまことの神さまを信じているのではなく、偶像礼拝をしているのです。
イエスさまこそまことの神さまであり、イエスさまこそ私を造られたお方であり、そのイエスさまが私の状況に関わらず共にいると約束してくださったのです。
神さまが共にいてくださることによっていただく平安は決して変わることがありません。
(祈り)
神さま、あなたは揺れ動く私と常に変わることなく共にいてくださいます。感謝します。
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