〔始まり―無からの創造〕
2015年1月2日(金)
私たちがイエス・キリストにおいてその現存と働きの中に神の現実と啓示を認めるなら、その時には私たちは彼を神として認めるのです。無なるものを目の前にされ、ご自分の問題となさり、それを真剣に受け止めて、それに付随的にだけではなく、そうではなくて神の神性の栄光全体において、ただ間接的に何かをあいだに挟むのではなく、ご自身を直接に全力投入して向かわれ、可能な限り深くそれと折り合いをつけ、それと関わってこられた、そういうお方なのです。
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被造物の内部の種々の相違と境界も、多くの「ない」を内包しています。つまり、どんな個々の被造物も完全ではなく、如何なるものも同時に他のものではなく、他のもののようではない。それぞれのものが自らの場所と自らの時だけを持ち、そこで自らの種、自らの本質、自らの存在だけを持つのであります。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、23f。
神さまが天と地のすべてを創造される前にはいったい世界はどのような状態であったのでしょうか。新改訳聖書の第2版では「地は形がなく、何もなかった」とあります。これに対して同じ新改訳聖書の第3版では「地は茫漠として何もなかった」となりました。
新共同訳では「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり・・・」とあります。
神さまは無から有を創造してくださいました。その「無」とはいったいなんであったのか。ただ単純に何もないということであったのか。
聖書の言葉をもとにして考えると、「無」は単純に何もなかった、ということではないようです。
新改訳聖書では「大水」と訳されていることばが、新共同訳では「深淵」となっています。深い淵です。その面、顔、正面に闇があった、闇がすべてを支配していたということでしょうか。
少し誤解を恐れずに考えるとすれば、この「無」というのは、単純に何もない、善も悪もなく、ただ何もない、ということではなく、それは闇の支配であり、神さまとの関係を拒否したすべての状態、存在ということではないかと思われてきます。
イエスさまはそのような「無」から有を創造してくださったのです。イエスさまを信じるということは、私たちは混乱と闇の支配の中から取り出していただいて、平安と光の中に生かしていただくということです。
平安と光の世界であるにもかかわらず、混乱と闇の支配がその「境界線」を越えて襲ってくるかのような瞬間もあるでしょう。
しかし神さまの創造のみわざは完全でした。主イエスさまとともにある私たちは、その確かな境界線をいただいています。
(祈り)
神さま、きょうもあなたが与えてくださった平安と光の中におらせてくださることを感謝します。
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