〔服従と十字架〕
2014年2月27日(木)
「自分の十字架を負って・・・。」
十字架は苦難でもなければ、過酷な運命でもない。それは、われわれがただイエス・キリストに固く結びつくことによって生じる苦しみである。
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ここで服従を真剣に考えず、福音に安易に信仰の慰めだけを見いだそうとし、自然的な人間のあり方とキリスト者としての人間のあり方を区別しようとしないキリスト教的な精神というものは、「十字架」をただ日常の生活の中でわれわれが自然に感じるような苦難、困窮、不安として理解するに違いない。
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十字架を負うということは、キリストと共に苦しむということを意味する。そして服従しつつキリストに結びつく者のみが、真剣に十字架のもとに立つのである。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、102頁f。
自分を捨てること。自分自身のことを忘れ、自分自身のことを意識しなくなるとき、キリストと共に自分の十字架を負うことができます。その十字架はイエスさまと共に苦しむ十字架です。
自分の十字架を負うということは自分が出会っている苦しみや痛みを負うということですが、自分を中心において自分だけに終始しているときは、それを負うことができません。自分のことを忘れてしまう。自分のことを委ねてしまう。イエスさまの手の中にゆだねてしまう時にはじめて自分の十字架をイエスさまと共に負うことができるのです。そしてそれはイエスさまと共に苦しむということにならせていただけるのです。その十字架は苦難でも過酷な運命でもなく、もはや恵みとなるのです。
(祈り)
神さま、いま経験している苦しみを、自分を真ん中において苦しむものではなく、あなたを中心において、あなたとともに苦しむものであることを知らせてください。そうして十字架をあなたと負うものでなければ知りえない恵みを教えてください。
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