2014年1月27日(月)
私はこのように聖書を読んでいます。私は聖書のそれぞれの箇所で、<神はここで私たちに何を語ろうとしているのか>と問うのです。そして私は神に、<神が私たちに何を語ろうとしているのかを示してくれるように>と願うのです。
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聖書以外のあらゆる場所は、私にとってはあまりにも不確かなものとなっています。私はそこでは神に似ているが、本当は自分の生き写しにすぎないものに直面しているだけではないかと恐れるでしょう。あなたは、分かってくれたでしょうか。私にはみずからすすんで自分の「理解を犠牲にすること」(sacrifictium intellectus)の用意があるのです。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、47頁。
聖書の言葉の中に、自分の経験や自分の好みの思想を求めて、仮にそれを発見したとしてもそれは聖書を読んだことにはなりません。
聖書の中に神さまの言葉を発見するということ、神さまからの語りかけを聞くということは、時に驚きであり、時に違和感があるのです。自分自身が神さまの前に立たされて、神さまにみ心をのように自分自身が変えられなければならない、という経験をするのです。それは厳しいことかもしれませんが、そうして命に至る道、狭く細い道に歩むことができるのです。
「主よお語り下さい。しもべは聞いています。」
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