神がわれわれに自分を見いだしてほしいと望む場所

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2014年1月26日(日)

もし神がどこに存在するべきかということを語る者が私であるとするならば、私はそこで常に自分にどのような仕方でか対応した神を、自分自身に好ましい神を、そして私の本質にもともと属しているような神を見いだすでしょう。しかし神がどこに存在しようと望んでいるかということを語る者が神ご自身であるならば、その場所は私の本質に全く対応せず、わたしにむしろ全然好ましくない場所ということになるでしょう。さてこのような場所こそが、キリストの十字架なのです。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、45頁f。

イエスさまは私たちに出会ってくださるまことの神さまです。どこに行けばイエスさまに出会えるのか。その場所は自分で決めることではありません。神さまはその権威の中でご自身がお決めになります。その場所は私たちにとって理解しやすい場所でないかもしれません。また時折厳しい場所であるかもしれません。いずれにせよキリストの十字架において私たちにお出会いされます。
十字架は苦しみの場所であり、また神さまの愛が完全にあらわれた場所です。
今日、この時、神さまは私にお出会い下さいます。

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