2014年1月17日(金)
「悲しみをになう人たちは、幸いである。彼らは慰められるであろう。」(マタイ5:4)
弟子たちの共同体は、悲しみとは何の関わりもないかのようにそれをふり落とすのではなく、むしろそれを担うのである。
・・・
弟子たちは、むしろ、自分に負わされた悲しみを、十字架においてあらゆる悲しみを担われる方の力によって担うのである。
ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、32頁。
キリスト者はこの世にあって世界の滅び、終末と裁きを知る者です。この世が進歩と力と未来を夢見ているときも、その饗宴から離れ世界が滅びる者であることを知り悲しむものです。この悲しみを知る者です。この悲しみを担う者です。イエスさまと共に担う者です。
悲しみを担う者こそ、幸いです。イエスさまによるまことの慰めを知る者としていただけるからです。この世のまやかしの慰めではなく、イエスさまの十字架と復活によるまことの慰めを知る者としていただけるのです。
このまことの慰めをいただかない限り人生の祝福はありません。
しかし悲しみを担う者は、人生の真の祝福をいただいています。
人生の真の祝福をいただいている者は、このようにあって、あらゆる事態の中にあって、勝利者です。
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