ただちに行動へと向かう祈り

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2014年1月7日(火)
「ああ、わたしの生活が、あなたのおきてを熱心に守るものとなりますように。」

貧しい者、悲しめる者が自分の痛みをじっと噛みしめなければならない時、この「ああ」というため息が不安な魂から発せられる。そして彼らの目が偉大な救い主を見上げる時、このため息は何よりも自分のための力強い祈りの力となる。われわれの「願望」のため息と「祈り」のため息とは、異なったものである。前者はわれわれ自身がよく理解している困窮から発せられるが、後者は神に教えられて初めて見えるようになる困窮から発せられる。前者はむやみやたらに願い求めるが、さもなくば絶望的であるが、後者は謙虚であり、しかも確信に満ちている。正しいため息はわれわれは自分の心から引き出すことはできない。それゆえ、神は〈そのため息は聖霊によって呼び起される〉ということをわれわれに知らせなければならなかった。正しいため息の中には神の前でのわれわれの深い困窮が、言い表しがたい困窮が集約されている。それはわれわれを神に執り成す聖霊の「言葉にあらわせないうめき」(ローマ8章26節)である。そして、この正しいうめきは神に隠れていることはない(詩篇38編9節)のである。

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われわれの「願望」は世の変革を願い求めるだけだが、われわれの「祈り」は自分自身から実際に変革を始める。

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行動は、明らかにこの祈りからのみもたらされるものであり、この祈りなしには行動はありえない。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、14頁。

願望ではなく祈りに生きることができますように。

謙虚でしかも確信に満ちている祈りに生きることができますように。

自分自身から変革を求める祈りに生きることができますように。

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