私たちは何の落ち度もない事柄に関して、他者の過ちをそしることで自分の高慢を満たそうという思いも存在します。
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私たちは神への純粋な情熱から悪魔に仕えることもあります。
詩篇141章3節
2013年10月14日(月)『心を新たに』~ウェスレーによる一日一生~
(編)A.ルシー、(訳)坂本誠
307頁
言葉によって私たちは罪を犯します。その罪から逃れるのはたいそう困難です。
なぜ陰口をたたくのでしょうか。なぜ他者を非難するのでしょうか。悪口を言い、誹るのでしょうか。
それは自分の高慢を満たそうとしているのだといいます。等身大の自分ではなく、自分を大きく立派なものであると高慢になっているのです。しかし実際は小さな存在なので、そのギャップを埋めようとすることが人生のテーマになってしまっています。何で埋めようとしているのか。この世のもので埋めようとしているのです。しかし埋められないので、結果周りの人の価値を低くすることによって、あたかも埋まったかのようにして安心するのです。周りの人を非難することによって、自分の価値を高めようとしているのです。
結局他者に厳しい意見をいう人の多くは、自分自身への価値観が低く、自分に自信のない人ではないかと思います。逆に寛容に他者を受け入れることができるためには、自分自身への価値観を確かにし、正しい自信を持つことが必要となります。それは神さまの愛によってのみ可能です。神さまの愛は永遠に変わらず、無限であり、完全だからです。その愛に満たされることが人生のテーマにならなければなりません。
神さまからの愛に満たされている人は、他者の足りなさ、過ちをゆったりを受け入れることができる人です。
神さまからの愛があるのに、実際は他のもので心を満たそうとしている人は、一見神さまへの純粋な情熱で語り行動しているようですが、結果的に悪魔に仕えているのです。自分も含めてですが、教会にはなんとこのような人が多いことでしょう。
信仰はこのような戦い、つまり自分自身が神さまの愛のみに生かされるかどうかの戦いです。他のもので満たそうとすることは偶像礼拝です。神を拝んでいながら、自分を礼拝している偶像礼拝者なのです。
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