人が罪によってはらまれ、生まれてきたという空虚な希望ではなく、人の内側の部分は邪悪であり、自分の「右の目」や「右の手」を「切り取って捨て」(マタイ5章30節ほか)、キリストの歩まれる道を、日々、十字架を背負って歩くならば、主が清いように自分も清くされるという考えを持つべきです。
マタイによる福音書5章30節
2013年10月10日(木)『心を新たに』~ウェスレーによる一日一生~
(編)A.ルシー、(訳)坂本誠
303頁
「人が人が罪によってはらまれ、生まれてきたという空虚な希望ではなく」。つまり、どうせ罪の中に生まれてきた罪人なのだから清く生きようとしても駄目なんだ、と開き直り虚しく生きるのではなく、
「人の内側の部分は邪悪であり」。つまり、確かに罪の中に生まれた罪人なのだけれども、
「自分の「右の目」や「右の手」を「切り取って捨て」(マタイ5章30節ほか)、キリストの歩まれる道を、日々、十字架を背負って歩くならば、主が清いように自分も清くされるという考えを持つべきです」。つまり、主の御心に生きようとするならば必ず主のように聖くしていただけるという希望に生きるべきである、ということです。
主に従おうとすること、そのために自分の中の罪の部分を切り捨てようとすること、そうするならば誰でも必ず主のようになると約束していてくださいます。
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