礼拝の中での祈りは、大切な礼拝の要素のひとつです。
礼拝の開式の祈り、牧師や長老が祈る牧会祈祷、献金の感謝祈祷、祝祷などがあります。
礼拝の会式の祈りは、その時の礼拝の祝福を祈ります。
牧会祈祷は、教会のための祈り、兄弟姉妹のための祈り、地域社会のための祈りなどを時宜にかなって捧げます。
献金の感謝祈祷は、ささげる祈りです。経済的な献金もそうですが、私たちのからだも時間もすべてをおささげします、との祈りです。献金をして感謝するというのは不思議な感じがするかもしれませんが、すべてのものを神さまから与えられていることを感謝しその一部をお返しすることを祈ります。
祝祷は、牧師が会衆の祝福を祈ります。これを牧師が神のようになって会衆を祝福するように感じてしまって、会衆の代表として神さまからの祝福を求める祈りと理解しなおして祈られる場合がありますが、それは少し誤解です。
礼拝の形式は、司祭と会衆が一つのテーブルを囲んで交わりとして行われます。ですから礼拝のプログラムはすべて司祭と会衆の呼応で行われるのが習わしです。交読文はその分かりやすい例ですね。祝祷も、司祭が会衆の祝福を祈り、会衆もそれに呼応して、司祭の祝福を祈るという最後の出発のところが祝祷に変化したようです。ですから牧師は必ず「会衆一同と共に」と祈らなければなりません。もし「われら一同と共に」と祈ってしまうならばそれこそ祭司のように会衆に代わって祈ってしまうことになり、全信徒祭司を大切に考えるプロテスタント教会の礼拝でなくなってしまいます。
さて、信徒が突然祈る可能性のある献金感謝祈祷はいつも議論される所です。会衆の中で祈ることは大きなストレスです。みな信仰者なんだから祈れるはずだ、祈らなければならないという強硬意見もあります。あらかじめ祈りがあてられても良いと思う人のリストを作成して祈りをお願いするという意見もあります。このようなことは今度は司会者にとって少なからずストレスです。
誰もが祈れるはずだと思います。しかし礼拝の中で、つまり多くの人々の中で祈るというのは誰もが祈れることではないと私は思っています。それは誰もが日常会話をすることができますが、誰もが大勢の中で代表的なスピーチができないこととよく似ています。
いずれにせよ会衆の中での祈りはある程度の準備が必要ですね。
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