あなたがたを試みておられるからである

静まりの時

  • テーマ:奉仕
  • 聖書箇所:申命記13・1~5
  • 日付:2026年07月01日(水)

1 あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現れ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、
2 あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう」と言っても、
3 その預言者、夢見る者のことばに聞き従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、いのちを尽くして、本当にあなたがたの神、主を愛しているかどうかを知ろうとして、あなたがたを試みておられるからである。

試み、試練とはいったい何であるのか。

苦しみ、困難、病気、さまざまな問題。それらも試練ですが、聖書の語る試練とは、「主を愛しているかどうか」が揺さぶられることです。

アブラハムは、約束の子イサクをささげよと神さまからいわれました。その出来事を聖書は「試練」といいます(創世記22章)。愛する息子をささげよといわれた神さまのおことばに従うが否か。イサクは神さまご自身がなされた子孫繁栄の約束の鍵です。神さまが、その子でなければならない、といわれた子です。それをささげよ、といわれるのですから、まったくの矛盾です。そんな理不尽なこと、信仰的にもおかしなことをせよ、といわれる神さま。そんな神さまに、それでもそのおことばに従うかどうか。いったい誰がこのような試練に耐えることができるでしょう。

さてこの申命記の個所でも、主を愛しているかどうか、が問われます。

「しるしや不思議」を示し、それが「実現し」、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう」という誘惑のことばが語られます。それでもそのようなことばに聞き従わず、ひたすら主を愛するか、と問われています。

この誘惑、試練に打ち勝つためには、日頃から、しるしや不思議、が真価を判断するものではない、という信仰に生きている必要があります。もし、しるしや不思議、を信仰の土台としていたならば、簡単に主を捨てて他の神々に仕えるようになってしまうでしょう。

十字架の主に向かって投げかけられた、十字架から降りてこい、そうすれば信じる、ということばに現れている信仰ではこの試練に耐えることができません。十字架そのものが神さまの御業であったと信じる信仰こそ、この試練に耐えることのできる信仰です。

4 あなたがたの神、主に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない。
5 その預言者あるいは夢見る者は殺されなければならない。なぜならその人は、あなたがたをエジプトの地から導き出して奴隷の家から贖い出された、あなたがたの神、主に対して、あなたがたが反逆するようにそそのかし、あなたがたの神、主が歩めと命じた道から、あなたを迷わせようとするからである。あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。

私たちが主に従い、主を畏れ、主の命令を守り、御声に従い、主に仕え、主にすがるのは、しるしや不思議が行われるからではない。主は、ほんとうのしるしや不思議を行うことの出来るお方ではあるけれども、それが行われるかどうかにかかわらず、主への確かな信仰に生きます。

しかし私たち罪びとは常にこの誘惑があります。ですから「主に対して、あなたがたが反逆するようにそそのかし、あなたがたの神、主が歩めと命じた道から、あなたを迷わせようとする」さまざまなものを「なたがたの中からその悪い者を除き去りなさい」。

私たちは何が「悪い者」であるかどうかを正しく判断することができませんから、戦時中の憲兵のようになって、他者を排除することをしてはいけません。ここでは他者を想定する前に、まず自分自身を顧みましょう。

しるしや不思議、への誘惑は大きいものです。自分の中にあるしるしや不思議に憧れるこころを取り除きましょう。そうして試練の中にあっても主を愛するこころを育てましょう。