静まりの時
- テーマ:奉仕
- 聖書箇所:ルカ16・1~13
- 日付:2026年06月30日(火)
「不正な管理人」のたとえ、と題されるところです。イエスさまは数々のたとえをお話しになられましたが、このたとえは難解なものの一つではないかと思います。
9 わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。
この聖句などは、目的のためには手段は選ばない、ともとれることばです。聖書の倫理観の高さを思うと驚くべきことばです。
難解、というのは、その文章自体が判読できないということではなく、文意、意図が分からないということであり、自分が予測している内容とかけ離れているので、分からない、ということです。
そうすると、いったい私は何を予測していたのか、何を期待していたのか、というところに光が当てられることになります。
もちろん不正を勧めたり容認したりが聖書の語るところ、イエスさまの教えではないと思います。では一体何が言いたいのか。
先ほど、目的のためには手段を選ばない、といいましたが、ここにある「永遠の住まい」というものの価値がどれほど大きなものであるのか、かけがえのないものであるのか、が分かれば、どんなことをしてでも手に入れたくなる、ということは、理解が可能だと思います。私はそれほどに、永遠の住まい、の価値を知っているだろうか、ということも考えます。聖書は倫理道徳の書物なのか、それとも私たちにまことのいのちを与える書物なのか。
つづいて語れた聖句は以下の通り。
10 最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。
11 ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか。
12 また、他人のものに忠実でなければ、だれがあなたがたに、あなたがた自身のものを持たせるでしょうか。
13 どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。」
ここに「大きなこと」「まことの富」「あなたがた自身のもの」ということばが登場します。そして二人の主人、神と富、どちらを愛し重んじるのかが問われています。
私たちは神さまを愛し重んじたいと願います。そうして「大きなこと」「まことの富」「あなたがた自身のもの」を任される者になりたいと思います。「永遠の住まい」に生き、味わう者でありたいと思います。
そうであれば、「小さなこと」「不正の富」「他人のもの」にも忠実でなければなりません。その小さなこと、不正の富、他人のもの、の中にも、神さまを発見しなければなりません。一見神さまと関係がないと思えるようなことも、そう思っているのは私であって、神さまから見れば大切なことかもしれません。
自分のいのちの価値、その大切さを見失ってはいけません。この世の価値基準を超えて、自分のいのちは大切なものなのです。永遠の住まいをいただくべき者なのです。いのちはどんなことをしても、大切にしなければならないものなのです。