静まりの時
- テーマ:たがいに徳を高める
- 聖書箇所:箴言22・1~16
- 日付:2026年06月25日(木)
9 善意の人は祝福を受ける。
自分のパンを貧しい者に与えるからだ。
10 嘲る者を追い出せ。争いは出て行く。
もめごとも辱めも終わる。
「善意の人」と訳されている言葉には欄外注がついていて、直訳として「目つきの良い人」とあります。
他の訳では以下の通り。
9 寛大な人は祝福を受ける
自分のパンをさいて弱い人に与えるから。
10 不遜な者を追い出せば、いさかいも去る。争いも嘲笑もやむ。
(新共同訳)
9 善意に溢れるまなざしの人は祝福される。
自分のパンを弱い人に与えるから。
10 嘲る者を追い出せば、いさかいも去り
争いも侮辱もやむ。
(共同訳2018)
善意はどこに現れるのか。まず「目」に現れる、ということかもしれません。優しいまなざしだけで心が癒されたような気になります。微笑みだけでうれしい気持ちになります。起こったような顔よりも微笑みを湛えた顔は美しく見えます。
そのような人が必ずしも「自分のパンを貧しい者に与える」とは限りませんが、微笑みは最上の「自分のパン」なのかもしれません。
あるいは自分のパンを貧しい者に与える人の顔は美しく見えるのかもしれません。
余裕のあるときならばいざ知らず、自分も貧しい中にあって、貧しい者に自分のパンを分け与えることは簡単なことではありません。
その難しいことをキリストは私たち貧しい者にしてくださいました。
争い、もめごと、いさかい、辱め、侮辱、嘲笑。そのようなことのない世界に生きたいものです。しかし私たちの世界ではこれらがあちらこちらに起こっています。聖書は、その解決として「嘲る者」を追い出せ、と語ります。
嘲りとは、他を馬鹿にしたり見下げて悪口をいうこと、ということです。新共同訳の「不遜な者」とは、謙遜でなく思い上がっている者ということです。いずれも、謙遜、から遠く離れていることです。
さまざまないさかい、争いは、結局は人間の高慢、傲慢が生み出している、ということかもしれません。いと低くなってくださったイエスさまとともに歩むことの幸いを覚えます。