キリストが代わりに死んでくださった、そのような人

静まりの時

  • テーマ:たがいに徳を高める
  • 聖書箇所:ローマ14・13~23
  • 日付:2026年06月23日(火)

13 こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。
14 私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。
15 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。

私たちはもう互いにさばき合わない。キリスト者になる、ということは、そういう決意をすることです。にもかかわらず私たちは互いにさばき合ってしまいます。自分の正しさを主張せずにはいられない。

さばかれた、というつらい経験はだれしも持っているものです。それは心の底に澱のようにたまり、普段は冷静でそれらが全体を濁すことはないのですが、何かがおこり、何かに揺さぶられると、その沈殿物が水中を浮遊し始め、全体を濁します。心が憎しみや絶望で覆いつくされてしまいます。

それは心理的な問題であるかもしれませんが、パウロは信仰の問題である、と語ります。愛を見失っているからである、というのだと思います。

「キリストが代わりに死んでくださった、そのような人」。互いにそのように信じることが見失われている。なるほど、自分のためにはキリストは死んでくださったと信じているかもしれない。しかし出会うすべての人のためにキリストが死んでくださった、それほどの人である、と信じているだろうか。もし信じているならば、さばくことなどするはずがない。できるはずがない。パウロはそう語るのだと思います。

さばくということは、いわば贖罪信仰の根幹が揺らいでいるというのです。

さばき合うことはやめよう。しかし、それには、何をしたらいいのでしょう。それは、「妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決める」のであります。さばく、とは言っても、信仰上のことであって、単なる個人的な悪口ではない、とわれわれは、言いわけをするでありましょう。弱い者は、信仰が弱いのであって、さばくことによって、相手を励ましてやることだってできるはずだと強弁するかも知れません。しかし、それがどんなことであれ、どんな方法であれ、さばかれた者に対する影響は、決して少なくはない、というのであります。相手の気持ちも考えてやらねば、というようなことではなくて、さばかれることが、信仰の弱い者を生かすことにはならない、ということであります。
(竹森満佐一、『ローマ書講解説教 3』、新教出版社、1972年発行、278頁f)