静まりの時
- テーマ:教会の交わり
- 聖書箇所:第一ヨハネ3・13~18
- 日付:2026年06月06日(土)
16 キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
17 この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。
18 子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。
同じヨハネによって書かれたヨハネの福音書の3章16節によく知られた聖句があります。
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3・16)
まるで呼応しているような聖句ですが、いずれも主がいのちを捨ててくださった、そこに神さまの愛があらわされた、という言葉です。ヨハネの手紙の方はさらに、主がいのちを捨ててくださったので、それにならってわたしたちキリスト者も兄弟姉妹のためにいのちを捨てるべきである、と語ります。
その「いのちを捨てる」の中身ですが、次の聖句に、自分の財をもって兄弟の困窮を助けなさい、と語られていますので、兄弟への施し、です。施しをしないような者に、神さまの愛はとどまっていない、と激しい言葉が続きます。身を削って施しをすることこそ、真実に愛がとどまっている者の姿である。それが行いと真実をもって愛することである。イエスさまを信じたというけれども、行いと真実をもって愛さないならば、信じていないことと同じことなのだ、あるいは、信じているとはいえないことである、ともとれる言葉ではないでしょうか。私たちはだれしも、この激しい言葉に自らの足りなさ、弱さを見せつけられるのではないかと思います。
言葉や口先ではなく、行いと真実をもって愛する。神さまに愛された者は、隣人を愛する者となる。行いによって救われるのではないのですが、行いの伴わない信仰は死んだものである。健やかな信仰は必ず健やかな行いを生みだすのです。そういう意味では、信仰と行いは相反することではないのです。
神さまの愛がとどまるために隣人を愛する、とも読める聖句です。神さまが私を愛していてくださる愛は決して私を離れることはありません。ですから私たちが何もせずとも神さまの愛は私たちにとどまり続けます。しかし神さまの愛のすばらしさを知り続ける、そのために神さまの愛にとどまり続ける。私が神さまの愛にとどまり続ける、ということと、神さまの愛が私にとどまりつづける、ということは、もしかするとセットなのかもしれません。私たちは誰かを愛するということを実際にして、愛することの難しさを実感し、そうして如何に神さまが私を愛してくださったかを実感していくのだと思います。愛されているその愛の大きさは、自分が誰かを愛することによって知るのです。