おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。

静まりの時 ルカ12・13~21
日付:2024年02月22日(木)

 群衆の中の一人がイエスに言った。
「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」
 すると、イエスは彼に言われた。
「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのですか。」

 そして人々に言われた。
「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

 それからイエスは人々にたとえを話された。
「ある金持ちの畑が豊作であった。
 彼は心の中で考えた。
『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』
 そして言った。
『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』
 しかし、神は彼に言われた。
『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
 自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」
(13-21)

 財産わけがうまくいかず兄弟に対して不満をもった人がいた。イエスさまなら解決してくれるであろうと思ってその人はやってきた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのですか」。思わずイエスさまもため息をついておられるのでしょうか。牧師もいろいろな相談を受けますが、私の場合ビデオデッキの配線の問いもありました(笑)。まあ、いいんですけど・・・。
 専門外だからほかを当たってくれ、とはイエスさまは言われません。その問いに潜んでいる問題を取り上げて、神さまの真理を語ってくださいました。さすがです。
 不満をもって問いかける問いには、多分に問題が含まれています。罪が含まれているといってもよいかもしれません。イエスさまは、はい分かりました、あなたの兄弟を連れて来なさい、とか、行ってその兄弟を諭してやりましょう、とは言われません。その問いかけた人の心にある問題に切り込んで行かれます。なぜあたなは不満なんだ。不満を持つあなたの心にあるものはいったい何なのだ、とそこに光を当てようとされます。
 これがまことの祈りの体験です。私たちは願うのです。しかしその願いの中にある罪に光が当てられる、そうして神さまの真理に出会っていく。本当に選択しなければならない道に軌道修正されていく。それが祈りです。ほんとうの祈りをささげようとする者は、自分を変える覚悟が必要です。自分が変えらる覚悟のないなかでの祈りは、願望は語られるかもしれませんが、本当の祈りが献げられているとは言えません。

「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(15)

 語られた例え話は、人の語る言葉と神さまのお語りになる言葉とが、対照されているようです。
 人間の語る言葉はこうです。

『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』

 つまり財産が十分に蓄えられた、さあこれでたましいの土台が出来た。これからは休め、食べて、飲んで、楽しめ」。

 これに対して神さまの語られる言葉はこうです。

『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

 人の語る「休め、食べて、飲んで、楽しめ」との言葉自体は大きな問題ではないかもしれません。しかしここには神さまのお語りになる言葉がありません。神さまの語られる言葉「おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる」がないのです。
 メメント・モリ、死を覚えよ、の言葉がない。いのちには限りがある、財産がいくらあってもいのちを左右することは出来ない、いのちは神さまのものである。その神さま抜きの人生では、その人生は空っぽの人生なのだ。

「自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」(21)

 神さまの前に如何に生きているか。神さまに向かって富む者となっているであろうか。

 神さまの前に富む者となる。それは一体どういうことなのか。善行を積み上げることなのか。教会の奉仕をたくさんすることなのか。献金をたくさん献げることなのか。
 この個所には続いて次のように記されていきます。

 それからイエスは弟子たちに言われた。
「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようかと、いのちのことで心配したり、何を着ようかと、からだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものだからです。
 烏のことをよく考えなさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。それでも、神は養っていてくださいます。あなたがたには、その鳥よりも、どんなに大きな価値があることでしょう。
 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。こんな小さなことさえできないのなら、なぜほかのことまで心配するのですか。・・・
(22-26)

 神さまが養ってくださることに信頼すること。神さまにすべてを委ねて、心配しないこと。それが、神さまの前に富むことなのだと思います。