静まりの時 マタイ6・16~18
日付:2024年02月13日(火)
16 あなたがたが断食をするときには、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。彼らは断食をしていることが人に見えるように、顔をやつれさせるのです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。
17 断食するときは頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
18 それは、断食していることが、人にではなく、隠れたところにおられるあなたの父に見えるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が報いてくださいます。
マタイ6章に入って、「善行」(1)、「祈り」(5)と語られ、16章から「断食」が語られます。いずれも「偽善者たち」のようであってはならないと語られます。
偽善者とは、もともとのギリシャ語では役者を現す言葉です。テレビや映画に登場する役者さんは、迫真の演技で私たちを魅了しますが、そこにあるのはいわゆる真実の姿ではありません。昔のことですが、有名なタレントが日本車のコマーシャルをしていると、そのかっこよさに宣伝されているその自動車への購買意欲が高まるのですが、実際そのタレントが日本車に乗っているわけはないよなー、と事実を考えると急に購買意欲までなくなってしまうようなことでした。
役者の方はそれを職業として真剣に取り組んでおられるので、その意味では、そこにはまた別の真実があるのだと思います。しかしそれでも、例えば大河ドラマでは紫式部は演じられている人格であって、役者の真実がそこにあるわけではありません。
もし人生が、自分自身の人格がないようなもの、演じられているものとなっているならば、人生の充実はありません。私たちの人生を形作っている基礎である信仰において、演じられているものが混ざっているとすれば、そこには幸福はないのです。
善行において、祈りにおいて、そして断食において、真実がそこに捧げられているだろうか。
「人に見えるように」ではなく、「人にではなく」断食をしなさい。それは「隠れたところにおられるあなたの父に見えるように」しなさい。父なる神さまに見えるようにするためには、人にはむしろ見えないようにしなさい。人から全く隠されてしまうことによって、神さまに見える、ということが可能となる。そうしてこそ父なる神さまからの報いが受けられるのだ。もし人に見えるということが、そこに忍び込んでいるとすれば、もはや神さまからの報いは消滅している、というのです。
「他人」と書いて「ひと」と読ませたりしますので、人と言う言葉は、他人、他者という意味と理解します。しかし聖書はそれだけを語っていはいません。神さま以外のものはすべて人です。そこで自分の最も近くにいる「人」とは誰か。それは自分自身です。
人に見られなければいい、そうしてこそ神さまからの報いがあるのだ、といい、自分がその行為、善行や祈り、断食をしっかりとカウントしている、見つめている、とすれば、そこに「人に見える」ということが起こっているのです。
私はこれだけ頑張っている、これだけ善行をしている、祈りを積んでいる、断食をしている、ということが、自分自身の自負となり、自分の価値観となり、そして信仰の土台となっているとすれば、それは真実の自分に生きていることではない。それは偽善者の生き方だ、と聖書は語ります。
そしてそれは何よりも囚われている生き方である、不自由な人生ではないか、というのだと思います。そんな醜い自意識に生きてしまっている人物の祈りを聞いてみましょう。
パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』(ルカ18・11-12)
このパリサイ人は、人前で断食をしているわけではありません。ひたすら神さまの前に断食をし、それを神さまの前に胸を張って祈っているのです。しかしこのような祈りを献げる者は義と認められることがないとイエスさまは言われました。
神さまさえ知っていて下さればそれでよい、他人からの評価は考えなくてもよい、というのは一つの信仰の生き方であると思います。しかしそれが結局自分自身の信仰の土台となってしまっているならば、人間はひとりよがりで頑なな生き方になってしまうのではないか。
善行や祈り、断食をして、それを自分自身さえも忘却してしまうような生き方。そこには本当に自由があると思います。
とはいってもなかなかそれは難しいことですね。その難しさがまた人間であることの意味だと思います。どうしても自分の善行、祈り、断食を数えたくなる。その弱さとの闘いもまたイエスさまの十字架にお出会いするチャンスだと思います。どうしても自分の承認欲求を満たさなければいられない、そんな自分自身と闘うのです。それが密室の祈りとなっている人は、本当にすがすがしい人生を送れると思います。
それと、「人にではなく、隠れたところにおられるあなたの父に見えるようにするため」の工夫は必要だと思います。善行や祈り、断食が人から見えないようにする工夫。たとえば献金は無記名、賛美や祈りを捧げる時は、できるだけ人から見えるところに立たない、奉仕の匿名性を高めるために、個人の個性や特徴をできるだけ見えないようにしていく、賛美のソロバートは先唱としては可能だが、独唱としない、牧師の説教や牧会も、かならず他者から派遣された者であるという前提を置く、などなど。十字架と復活の主だけが、視界に入るようなしつらえ、配置も大切だと思います。なによりもその人自身の自由のために。