祝福があなたに臨み、あなたについて行く。

静まりの時 申命記28・1~14
日付:2024年01月30日(火)

1 もし、あなたが、あなたの神、主の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高く上げられる。
2 あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたについて行く。
3 あなたは町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。

 神さまの御声、すなわち聖書のおことばに「聞き従う」ならば、神さまは祝福してくださる、とモーセはイスラエルの民に語りました。
 祝福と訳されているヘブル語のこの言葉には、「祝福、反映」という意味と共に「(神への)賛美、贈り物、平和条約」という意味があるそうです。神さまが与えて下さったものであり、その神さまに賛美を献げようとの心を生み出すもの。そしてそれは、自分だけが良い目に合う、と言うことではなく、そこに平和が生まれる、すべての人がその祝福にあずかることになる、との意味が想像されます。

 祝福は「ついて行く」ものです。自分の手で獲得されるものではありません。祝福はどこについて行くのか。それは主の御声、神の言葉に聞き従う者について行きます。主の言葉に聞き従っているならば、ふと後ろを振り向くと、そこに祝福がついて来ている。そういうものです。
 祝福は追い求めるものではなく、ついてくるものである。私たちは、祝福をいたずらに追い求めようとするので、かえって祝福は逃げ去ってしまうのかもしれない。そうすると、祝福を得る、ということが第一の目的となって、主の御声に聞き従おうとするならば、それは祝福を追い求めていることにはならないだろうか。
 主の御声に聞き従うことが、祝福を得るという目的のためではなく、もっと違った目的、あるいは動機づけによってなされるならば、そこにおのずと祝福が「ついて行く」ということ。

 ダニエルとともに信仰に生きた若者たちのことばを思い出します。

「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは王に答えた。
『ネブカドネツァル王よ、このことについて、私たちはお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ、あなたの手からでも救い出します。しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。』」
(ダニエル3・16-18)

 なぜ彼らは、金の像を拝むことを拒んだのか。拝めばまことの神さまからの罰(ばち)が当たると考えたからだろうか。彼らは「私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができる」から、金の像を拝むことをしない、といったのではなく「たとえそうでなくても」拝むことをしない、といったのです。
 いわゆる人間の求める祝福がたとえなかったとしても、自分たちはひたすら神さまのみを神とする、と語ったのです。いったい何が彼らにそう語らせたのか。

「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6・5)

 イエスさまご自身も最も大切な戒めとして語られたこの申命記6章の言葉。
 なぜ主の御声に聞き従おうとするのか。それは主を「愛するがゆえ」に聞き従おうとするのです。愛しているが、その語られる言葉には聞き従わない、というのであれば、それは愛してはいないことです。ましてや祝福をいただくための手立てとして、その言葉に聞き従おうとするならば、そこには愛はありません。
 親の言いつけを守ろうとする子どもがいて、ただ自分が祝福されるために、親の言葉に聞き従っているとすれば、その親はどんな気持ちでしょう。
 逆に祝福があるかないかにはかかわらず、ひたすら親への愛に満たされて、その言葉に聞き従おうとする子どもに対しては、親は祝福したくて仕方がないのではないか。あるいは祝福しないではいられないのではないか。
 そうして祝福にあずかった子どもは、その祝福を、自分が御言葉に従ったからである、とまるで自分の誉れのように思うことはないでしょう。祝福されたことを、ひたすら親に感謝するのではないか。
 そのような愛の関係を、神さまは私たちと築きたいと願っておられるのだと思います。
 まことに祝福は神さまを愛する者に「ついて行く」ものなのです。