静まりの時 ヘブル5・7~10
日付:2024年01月29日(月)
キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。
キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。
(7-10)
「その敬虔ゆえに聞き入れられました」。いったい何が聞き入れられたのか。その前の文章に「大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ」とありますので、この「祈りと願い」が聞き入れられたと解することができます。
イエスさまはいったい何を祈られ願われたのか。「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって・・・」。イエスさまが、この地上を歩まれた中で、自分を死から救い出すことができる方、すなわち父なる神さまに向かって祈られた祈り。それはいったい何のときであったのか。
真っ先に思い浮かぶのが、「ゲツセマネの祈り」でしょう。ゲツセマネの祈りが、「その敬虔さのゆえに聞き入れられた」、というのです。
聞き入れられたのでしょうか。イエスさまは、御心ならばどうかこの杯を取りのけてほしい、できれば十字架に架からなくてもよいようにしてほしい、と祈られたではありませんか。にもかかわらずイエスさまは十字架に架かられました。ゲツセマネで大きな叫び声と涙をもって祈り願われたイエスさまの祈りは、聞かれなかったのです。しかしそれをヘブル人の手紙は、いや聞き入れられたのだ、あのゲツセマネの祈りは、実は聞き入れられたのだ、と語るのです。驚くべき言葉です。
少し前から読んでみます。
1 大祭司はみな、人々の中から選ばれ、人々のために神に仕えるように、すなわち、ささげ物といけにえを罪のために献げるように、任命されています。
2 大祭司は自分自身も弱さを身にまとっているので、無知で迷っている人々に優しく接することができます。
3 また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のゆえにささげ物を献げなければなりません。
4 また、この栄誉は自分で得るのではなく、アロンがそうであったように、神に召されて受けるのです。
5 同様にキリストも、大祭司となる栄誉を自分で得たのではなく、
「あなたはわたしの子。
わたしが今日、あなたを生んだ」
と語りかけた方が、それをお与えになったのです。
6 別の箇所でも、
「あなたは、メルキゼデクの例に倣い、
とこしえに祭司である」
と言っておられるとおりです。
(1-5)
イエスさまはまことの大祭司となられました。大祭司は自分がなりたいからなるようなものではありません。神さまに召され、任命されてはじめてなることができるのです。
その召しは、神さまの一方的な選びによってなされるのですが、しかし大祭司自身は、その要件を満たす必要があります。その要件とは、「弱さを身にまとう」ということです。弱さを身にまとっていない大祭司は大祭司の要件を満たしていません。
では弱さとは何か。
「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(マタイ26・39)
イエスさまは、十字架を前にして恐れ、怯え、できればこれを経験しないでも済むようにしてほしいと、大きな叫びと涙をもって祈られたのです。そこに弱さを身にまとおうとされている神の御子のお姿があります。立派に苦しみに向かおうとする勇士の姿はどこにもありません。イエスさまは、演技をされたのではありません。心の底からおびえられたのです。苦しまれたのです。この苦しみを経験された、学ばれたことによって、完全となられました。
もちろんイエスさまは神の御子ですからもともと完全なのです。しかし経験を伴わない完全は、私たち人間の目から見れば、どこか不完全さがあるように見えてしまいます。そのような私たちの為に、御子イエスさまは十字架の道を進まれました。全き弱さをさらけ出しながら進まれたのです。こうして、イエスさまのゲツセマネの祈りは聞き入れられました。ここにイエスさまの限りない「敬虔」があります。
敬虔な信仰、とはこのように神さまに従順を学ぶことです。神さまに従順に従うということも敬虔な信仰の歩みだと思います。しかしここで明らかにされているのは、自らの弱さをさらけ出しながら、その自分自身を神さまの御手の中に一切を委ねていること。それが敬虔ということなのです。
ゲツセマネの祈りをささげておられるイエスさまのお姿は、私にとってもっとも身近な神さまのお姿です。この方ならば、私の祈りと願いを聞いてくださる、時に卑近で自分勝手な祈りも、否定せず解釈もせず、そのままに聞いてくださると信じることが出来るのです。イエスさまはまことに私の大祭司です。