静まりの時 イザヤ33・1~6
日付:2024年01月22日(月)
2 主よ、あわれんでください。
私たちはあなたを待ち望みます。
朝ごとに私たちの腕となり、
苦難の時の、私たちの救いとなってください。
3 その鳴りとどろく声に、もろもろの民は逃げ、
あなたが立ち上がると、国々は散らされます。
(2,3)
「私たちはあなたを待ち望みます」。
待ち望む、という決意。主よあわれんでください、との祈りにおいて祈られなければならないこと。それは待ち望むという決意。
待ち望む。待望する。希望をもつこと。希望をもって今の時を待つ。神さまの前にそのように申し上げる。神さまに対する態度表明であり、それはまた人生そのものに対する態度であり決意です。祈りは待ち望む決意なしには成り立ちません。
直ぐにでもきいてください、と祈りたくなります。しかし神さまは聞いておられます。ただ私の都合の良いようには効かれない。そして利かれない。
全能の神さまが、聞いていてくださるのに、効かれない、そして利かれない、ということであるならば、そこには待ち望むことが求められています。祈りはまさに待ち望みの訓練です。
神さまの御声が鳴りとどろくならば、そして、神さまご自身が立ち上がってくださるならば、打開されない事態はなく、解決しない問題はありません。神さまへの信頼を確かにして、その時を待ち望むこと。いまかいまかと待ち望むこと。信仰生活はこの待ち望みの連続です。
ただ「待つ」ということではなく、「待ち望む」こと。
たとえば、電車を待っているとき。ただ待つということにおいては、電車が来たときが本番であり、今のその待ち時間は無益な時です。待ち時間は出来るだけ短い方がよいことになります。何か無益ではないと思えることで満たしていかなければならないという焦りも生まれるかもしれません。
しかしただ待つのではなく、待ち望むという態度は、先のことは神さまの御手の中にあることを信じています。それによって、いま待っている時間も、愛なる神さまの御手の中にあることを信じています。神さまの御声が鳴りとどろき、そして、神さまが立ち上がってくださるならば、瞬時にすべては解決するのですから。明日のことは明日自身が心配することを信じて委ねています。明日のことを神さまの御手に委ねているので、安心して今の時を過ごすこと、今の時を生きることが出来ます。
「希望は、将来を予想する必要から私たちを自由にしてくれます。そして、『神は決して私たちを捨て置かれず、私たちの心のもっとも根底にある願いをかなえてくださる』という深い信頼を伴いつつ、いまこのときを生きることを可能にしてくれます。」(ヘンリ・ナウエン)。
上記のナウエンの書物の続きの文章を読んでみましょう。
あるとき、友人と二人で海岸を歩いていたときのことを思い出します。私たちは、お互いの関係について真剣に語り合っていましたが、何とか互いに自分のことを分かってもらおう、また、相手の気持ちを理解しようと一生懸命でした。二人ともあまりにもその問題に必死になっていたので、はるかに続く静かな岸辺に寄せては砕け散る波の上に、息を飲むほど美しい夕焼けがさまざまな色彩を映し出しているのに気づきませんでした。突然、友人が声を弾ませて言いました。
「ほら、見てごらん。夕陽を見てごらん、ほら」
彼は、自分の腕を私の肩の上にまわしました。そして二人で、はるかに広がる水平線のかなたに、ゆらめく火のかたまりがゆっくりと消えてゆくのを見つめていました。そのとき、私たちはどちらも、希望と喜びとはどういうものかを知りました。(ヘンリ・ナーウェン、『いま、ここに生きる』、太田和功一訳、あめんどう、1997年9月20日、43頁f)
先週の木曜日あたりから体調を崩し、食欲が出ず臥せったのですが、土曜日にはおかげさまで床を離れることができました。インフルエンザや新型感染症ではなく、いわゆる風邪も流行しているのでしょうか。ポカリスエットを飲みつつひたすら横になっていると徐々に快方に向かいました。しんどい時は寝るに限りますが、しんどいからこそ寝ることもしんどいものです。寝るということも健やかだからこそできることなのです。よく眠れるようにと、なぜかキューピー人形の常夜灯とブラームスの子守歌のオルゴールが枕元におかれたのですが、オルゴールはさすがにうるさいのでやめていただきました。