静まりの時 エペソ5・8~20
日付:2024年01月08日(月)
8 あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。
9 あらゆる善意と正義と真実のうちに、光は実を結ぶのです。
10 何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。
11 実を結ばない暗闇のわざに加わらず、むしろ、それを明るみに出しなさい。
12 彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことなのです。
13 しかし、すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされます。
14 明らかにされるものはみな光だからです。それで、こう言われています。
「眠っている人よ、起きよ。
死者の中から起き上がれ。
そうすれば、キリストがあなたを照らされる。」
15 ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、
16 機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。
17 ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。
18 また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。
19 詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。
20 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。
月の光は、もともとは太陽から発せられた光です。月は至る所にクレーターがあって荒涼とした死の世界です。太陽に照らされない半球は漆黒、まさに暗黒があるだけです。しかしひとたび太陽の光に照らされると、38万キロ離れた地球の表面にいる私の足もとを照らすことができるほどの光を発します。
私たちも、暗闇でした。しかし主イエスさまの光に照らされて、光、となりました。光の子どもとして、光の子どもらしく歩みましょう。
光の子どもらしく歩むこと。それは
- 善意、正義、真実に歩むこと。
- 主が喜んでくださることを吟味すること。
- 暗闇の業には加わらないこと。もし暗闇の業を知ったならば、むしろそれらを明るみに出すこと。
- 自分がどのように歩んでいるかを細かく注意すること。
- 知恵のない者としてではなく、知恵のある者として機会を十分に生かすこと。
- 愚かにならないで、主のみこころがなんであるかを悟ること。
- ぶどう酒に酔わないこと。むしろ御霊に満たされること。
- 詩と賛美と霊の歌とをもって互いに語り合うこと。主に向かっては、賛美を献げ歌うこと。
- いつでも全てのことについて、私たちの主イエスキリストの名によって、父なる神さまに感謝を捧げること。
光の子どもになりなさい、と言われているのではありません。すでに主によって光とされたのです。光とされているので、おのずと光の子どもとして歩めるはずなのです。しかし私たちは罪びとなので、せっかく光としてくださったにも関わらず、光らないようにしてしまいます。光る者としてくださったにも関わらず、光らないようにしてしまう。電球に覆いをかけてしまうようなことで、行き場のない光は熱を溜め、様々な不具合を起こしてしまいそうです。光としてくださったにも関わらず、光の子として歩まないのは、不自然なことであり、無理があるのです。
光の子として歩むことは、それ自体が喜びであり、自然なことです。無理がないので、健やかさがそこにはあります。まことに人間らしい、そして自分らしい歩みが生まれるのです。
この光の子どもとしての歩みの一つひとつを思いめぐらすことは大切なことですが、それにはいくら時間があっても足りないぐらいです。いくつかを黙想してみましょう。
「また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」(18,19)
倫理道徳的に飲酒の禁止を命じている、というよりも、当時信仰のために飲酒をする、お酒の力をかりて信仰を高めていこうとする、ということがあったようで、そのような行為について戒めようとした言葉とのこと。お酒の力をかりて信仰を高めようとする、そういう宗教は、日本でもいくつも見つけることが出来るかもしれません。むかしお祭りでは、子どもにも平気でお酒を飲ませることを容認していたようなことがありました。そうして信仰心を高めようとする。本来なら、信仰によって満たされる、ということがあるはずなのですが、信仰以外のもので満たそうとする、ということ。それはお酒に限らず、別のいろいろなものを数えることが出来るのではないか、と思います。
お酒の力によって信仰心を満たそうとするのではなく、御霊に満たされよ、とパウロは語ります。御霊に満たされる、ということは「酔う」ということとは別のことです。御霊に満たされる、ということは、詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合うこと。そしてまた主に向かって心から賛美を献げることです。賛美を献げるということは、酔う、ということとは違って、かなり冷静な中で行われることなのです。
「詩篇のことであろうとか、さんびはさんび歌のことかとか、霊の歌とはどんなものか、という説明はあるかも知れません。しかし、今から二千年前にどんな歌をうたったとって詮索してみても大した益はありません。それよりも、彼らが、聖霊に満たされてうたい出さずにはおれなかったことの方が、どれだけ重要でありましょう。それほど、心から、神をさんびしたく思うことが、われわれがさんびを歌う気持ちであるはずです。・・・宗教心を満足させるためにうたうものではありません。それこそ、まさに、神をさんびするために、心から神に向かってうたうべきものであるはずであります。」(竹森満佐一、『講解説教・エペソ人への手紙』、新教出版社、1988年、294頁f)
賛美は心から歌うことです。形式的に歌うことではありません。しかし無秩序に歌うことが心から歌うことでもありません。喜びをもって、互いに語り合い、主に向かって歌うことです。光の子どもとして生きる私たちはいつも賛美を歌います。
「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。」(20)
感謝できることばかりではありません。しかしここに「すべてのことについて」と書かれています。感謝できないことも、感謝をする。ちょっと無茶なことです。しかし「私たちの主イエス・キリストの名によって」それは可能となります。感謝できないことも、私たちの主イエスさまのお名前によって見つめていく。そうるすと、感謝できるものに変化していく。そこで変化していくのは、対象となっている感謝できないものではなく、私自身の心です。感謝できないものは、相変わらず感謝できないものなのですが、変えられた私の心が、それを感謝すべきものとして再発見してく。やせ我慢や、現実逃避ではなく、謙遜とその自由の中で、感謝の心に変えられていく。
光の子どもとして生きる私たちは、すべてのことについて神さまに感謝を捧げます。
今日も、喜びの歌を歌いながら感謝をもって一日を歩みたいと思います。
今朝は雪になりました。被災地の方々のために祈ります。