教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです

静まりの時 エペソ1・15~23
日付:2023年12月14日(木)

「こういうわけで私も、主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛を聞いているので、祈るときには、あなたがたのことを思い、絶えず感謝しています。」
(15-16)

 パウロはエペソ教会のことを聞いています。教会のことを聞く、というと、教会の様々な情報が伝えられてきた、ということですが、パウロはことさら、教会のイエスさまに対する信仰と聖徒たちに対する愛を聞いている、といいます。神さまへの信仰、兄弟姉妹への愛。おおよそ教会を知る、というとき、この二つのことを知る、ということにおいて、知る、ということが成り立つのです。どんな規模の教会か、どれくらいの出席人数なのか、どんな活動が成されているのか・・・、ということも教会を知るということかもしれませんが、何よりもイエスさまへの信仰、兄弟姉妹への愛を知ることにおいて、私たちは教会を知ります。

「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」
(17-19)

 パウロのエペソ教会についての祈りの焦点が記されています。「神を知るための知恵と啓示の御霊」を与えて下さるように、と祈ります。それらがなかったわけではないと思います。しかし教会のために祈る、といった時、何を真っ先に祈るのか。これが無ければ教会ではない。これさえあれば教会である、というものとはいったいなんであるのか。「神を知るための知恵と啓示の御霊」。地を生きる教会においては、常に求め続けるべきもの、なのだと思います。
 今一つは、神さまから与えられる「望み」がどのようなものか、「聖徒たちが受け継ぐもの」がどれほど栄光に富んだものか、「神のすぐれた力」が、どれほど偉大なものであるか。それらを知ることが出来るように、信仰の目が開かれるようにと祈りました。
 これもエペソ教会になかったわけではないと思います。しかし教会において語られるべきこととは、神さまがどんなに素晴らしいお方であるのか、に尽きるのだと思います。そしてその素晴らしさを知ることが出来るところ、それが教会です。

 神さまの恵みが見えないとすれば、それは神さまの恵みがないのではありません。神さまの恵みはあるのです。しかし私たちの目が曇っていて、それらを見えなくさせているのです。鍵は私の目にあります。

 神さまの素晴らしさが見えるように、どのようにすればよいのか。パウロは、目が開かれるようになれと命じたのではありません。神さまに目を開いてください、と祈りました。私たちも、目が開かれるようにと祈ります。

「この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。」
(20-22)

 神さまが何をなされたのか。神さまは、ご自身の大能の力をどこに働かせなさったのか。それはキリストの復活において現わされた、とパウロは語ります。そして、天上で、すべてにまさる者として、すべてを支配する者として、その神であることを確かにされました。イエスさまこそ、すべての上に立つ、まことの神ご自身なのです。
 神さまは、このイエスさまを、「すべてのものの上に立つかしら」として、教会に与えられました。教会とはいったいどういうところであるのか。それはイエスさまがかしらとしておられるところです。

「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」(23)

 教会はイエスさまがかしらとなっておられるところであると同時に、からだです。またイエスさまご自身が満ちておられるところです。すべてのものをすべてのもので満たすお方であるイエスさまが満ちておられるところなのです。

 エペソの教会をはじめ新約聖書に書かれている教会は、今日の教会のような会堂があったわけではありません。大会堂が建てられるようになったのは、キリスト教が公認され国教となって以後のことです。教会とは、建物のことではなく、イエスさまへの信仰に生きる者たちの集うところです。世界から見れば小さく弱い群れです。しかしそこに、復活の主がおられる。すべてにまさるお方。すべてをご支配なさっておられるお方が満ちておられる。これは信仰の目が開かれなければ見えないことです。しかし信仰の目をもって見れば、その目の曇りを取り除いていただければ、すぐにでも見えてくるものです。ここにイエスさまが満ちておられる。かしらとして統べ治めていてくださる。なんと力強いことでしょう。

 蛇口から勢いよく流れ出る水を汲むために、小さなコップではすぐにあふれかえるか、あるいは水が飛び出してしまいます。うまく汲むことが出来ません。そのようにあまりにも大きな神さまの恵みを、私の小さな器では受け止めきれないのです。しかし教会は、イエスさまが満ちていてくださるところです。そのイエスさまが、私を満たしてくださいます。神さまの恵みを汲もうとするよりも、その恵みの中に浸りきればよいのだと思います。